Posted By taga on 2016年10月29日
はっきり言おう。
スリッパを履いて教壇に立っている教師に
災害への心構えなど、ない。
そのとき、地震が起こったら、子どもたちを誘導しなければならない。
けがをした子どもがいたら、
背負わなくてはならないかもしれない。
そんなときにスリッパ履いていて、役に立つのか。
僕は必ず上靴を履いていた。
学校ではさまざまなアクシデントが起こる。
とっさに走らなければならないときもある。
僕は何度か血だらけの子どもを背負って走った。
万一災害が起きたら、
自分の足元はそれに対応できるのか。
そんなことを考えたことがあるのだろうか。
「着脱が便利だから。」
「水虫になりにくいから。」
「軽くて楽だから。」
全て教師目線の理由だ。
子どもたちのためにこういう理由でスリッパを履いていると
胸張って言えるものなら、言ってみろってんだ。
スリッパはトイレだけにしろ、と言いたい。
Category: 教師へのメッセージ |
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Posted By taga on 2016年10月28日
大川小学校の裁判で
弁護士の掲げた
「先生のいうことを聞いてたのに!」
という横断幕にものすごい抵抗を感じる。
教師はいざとなったら、子どもたちの命を預かる立場だということは
常に意識しておかねばならない。
大川小のことは、そのことを教師たちにつきつけてくるのだ。
しかし、ともに亡くなった教師たちも必死だったはずだ。
不幸にも判断が間違っていた。
僕は、そのことでここまで亡くなった教師たちを責めることには
抵抗を感じてしまう。
子どもたちの遺族の方がそういうふうに思われることは
ある意味当然かもしれない。
でもね、子どもたちと共に命を落とした先生の遺族は
あの横断幕をどんな思いで見たのだろうか。
僕はそれを思うと、胸がつぶれるようになる。
Category: 社会問題・教育問題 |
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Posted By taga on 2016年10月27日
昨日、良寛の恋のことを書いたが、
最近、有名な歌さえ知らない方がいらっしゃるので
いくつか紹介する。
「この里に
手まりつきつつ子どもらと
遊ぶ春日は
暮れずともよし」
「あすよりの
のちのよすがはいざ知らず
今日の一日は
酔ひにけらしも」
如何なるが
苦しきものと問ふならば
人をへだつる心と
こたへよ」
「自戒のことば
こころよからぬものはーー
ことばの多き、口のはやき さしで口
手がら話 へらず口
唐ことばを好みてつかふ
おのが意地をはりとほす
もの知り顔のはなし
この事すまぬうちにかのこといふ
くれてのち其のこと人にかたる
返すといひて返さぬ
にくき心をもちて人を叱る
悟りくさき話 ふしぎばなし
神仏のことかろがろしくさたする
親切げにものいふ
人にものくれぬさきにそのこといふ
おれがかいしたかうしたといふ
この人にいうべきをあの人にいふ
・・・・
をろかなる人をあなどる
かたことを好みてつかふ」
全部書かないけどシンプルな人が到達した境地は美しいということだ。
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月26日
良寛と貞心尼は言葉で恋を紡いでいく。
言の葉は人の思いを深める。
「秋萩の
花咲く頃を待ち遠み
夏草分けて
またも気にけり
貞心尼」
御かへし
「秋萩の
咲くを遠みと夏草の
露をわけわけ
訪ひし君はも
良寛」
肉体を中心としたつながりは脆い。
言葉を紡ぎ合うことにより
精神をつなげていくということだ。
言葉は二人だけの世界を創っていく。
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月25日
良寛というと、
竹の成長に合わせて床や庇を切ったことや
蚊に血を吸わせるのが自然だというような
常人にはないような慈しみあふれた話で有名だ。
お経を読まず、説法もしない自由人のお坊さん。
本来は歌人として有名だ。
晩年、
子供ほど年の離れた貞心尼と恋に落ち
二人で歌を詠み交わしている。
こちらの方も人間的だ。
これほど純粋に愛を語り合った詩は
類を見ない。
・・・はじめてあひ見奉りて
「君にかく相見ることのうれしさも
まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」貞心尼
御かえし
「夢の世にかつまどろみてゆめをまた
語るもゆめもそれがまにまに」良寛
田中和雄の『良寛さんのうた』精興社 より
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月24日
沖縄での「土人」発言事件。
言葉そのものの怖さをまず感じる。
発言した警官は、おそらく大して考えずに言ったのだろうと思っている。
大阪の警官が沖縄に対して差別意識を持っているとは、考え難い。
関西の厳しい地域において、
「おまえら、なにやっとんどい。」
「どかんかい、こら。」
等というような言葉は、当たり前のように使われる。
「みなさん、何をしているんですか。」
「ちょっとそこは、どいてください。」
等とは絶対に言わない。
その警官たちは、なんにも知らないのだろう。
沖縄の人たちの歴史も思いも。
しかし、言葉は怖い。
言葉には歴史がある。
背景がある。
「不適切だ」ではおさまらない。
日本軍が沖縄に駐留していた時、沖縄の人たちを差別した歴史がある。
日本軍のいた地域だけ、住民が大勢亡くなっている。
東北出身の兵士たちだけは沖縄の人たちを馬鹿にしなかった。
それは、東北弁の兵士たちが、軍隊の中では差別されていたこととも関連している。
県別の慰霊塔の中で、沖縄の人たちがお金を出して立てたのは東北の兵士たちのものだけだという。
そんなことを知っていたら「土人」などという言葉は使わない。
知らないからだ。
知らないことは、人を侮蔑することになる。
知らなければ人を傷つけることがある。
だから、どんな人間も「知ること」の大切さを意識しなければならない。
Category: 未分類, 言葉に関すること |
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Posted By taga on 2016年10月23日
今日は急遽広島へ行く。
もちろん日本シリーズ。
僕は50年以上もカープファン。
黒田が見られないのは残念だけど、
Tシャツは、着ていく。
もうカープの日本シリーズはないと思っていた。
夢はいつも見るものだということだ。
強くなるチームと弱いチームの違いは
練習で手を抜かないということにあると思っている。
他球団で活躍中の選手を引き抜いては強くしようというような発想の球団には
魅力がない。
プロだから、それはありだと思うが
僕のとは違う。
黒田も新井も何倍ものお金を蹴ってもどってきた。
それがチームの力になる。
そんなチームはカープだけだ。
応援してこようっと。
Category: 未分類 |
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Posted By taga on 2016年10月22日
今日は豊岡へ向かう。
昨年度に声掛けしていただいて
そこからいろいろな人とつながった。
豊岡で地道にがんばっている人たちに
少しでも役に立てれば幸いだ。
今回は、模擬授業をしてみないかと提案して
それを元に検討会も入れる。
ただ話を聞くだけではないから、
個々の関わり方も変わる。
以前はただ頼まれて話をしていただけだけれど、
この数年でセミナーや学校の指導助言に対する僕の考え方も変わってきた。
僕の構えが受け身的ではなくなってきたということだ。
これも、「教師教育」の一環だと考えている。
自分の立ち位置、これから進む道に迷いながら進んでいる。
迷いを晴らすのは勉強しかないんだけど、
勉強すればするほど
分からないことが増え続ける。
Category: 未分類 |
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Posted By taga on 2016年10月15日
今年も、教員採用試験の合格不合格の知らせが届く。
合格は扉を開くようなものだから、
心からおめでとうと言いたい。
不合格者には、
「どうってことない」
と言いたい。
人生は長い。
僕も、2回教員採用試験を落ちている。
神戸大学出身者の男子が落ちることは絶対にない、と言われていたときに。
すでに学生結婚していて、家内は中学国語を全く勉強しないで通ったのに。
人の三倍くらい試験勉強したのに。
落ちた。
ショックだった。
布団の中で涙が出た。辛かった。
その僕が、今、10校の公立校へ年間指導に入っている。
各地の教育委員会に呼ばれて行く。
人生って、そういうものだ。
僕が失敗する若手を受け止められているとしたら、
自分が失敗を繰り返してきたから。
教師は、子どもたちの挫折も受け止めてあげなければならないときがある。
失敗も、いつかは力になる。
乗り越えられないレベルの挫折は来ない。
どうってことない。
Category: 教師へのメッセージ |
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Posted By taga on 2016年10月11日
「びしっと、しめろ。」
「しめてかからないと・・・。」
未だにこの言葉を口にする教師がいるのは、哀しいことだ。
こんなものは、とっくの昔に死語となっているのに。
体罰容認の先にこの言葉がある。
「しめる」って、なんだ。
子どもに対して本来使うべき言葉ではない。
教育として使える言葉ではない。
体罰がオーケーだった時代に横行していた言葉だ。
その頃は、保護者にもそう言う方が多かったものだ。
「先生、びしっとしめてやって下さい。」
「びしばし、やってください。」
と、よく言われた。
子どもに体罰を奮ってもらってもいいと言う権利は、
親にもないのだという児童の権利の基本を思い出すべきだ。
びしっとが体罰でないとしたら、
いったい何だろう。
厳しくしろと言うことか。
それなら分からないでもない。
子どもに対しての厳しさも必要なのだから。
その厳しさの中身が、怖い顔と大声の叱責であるならば、
これも体罰につながりかねない。
びしっとじゃなく、
子どもたちをぴりっとする方法を考えていかねばならない。
Category: 社会問題・教育問題 |
教育死語 ③ はコメントを受け付けていません
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