多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

マツダスタジアム

Posted By on 2016年10月23日

今日は急遽広島へ行く。
もちろん日本シリーズ。

僕は50年以上もカープファン。
黒田が見られないのは残念だけど、
Tシャツは、着ていく。

もうカープの日本シリーズはないと思っていた。
夢はいつも見るものだということだ。

強くなるチームと弱いチームの違いは
練習で手を抜かないということにあると思っている。
他球団で活躍中の選手を引き抜いては強くしようというような発想の球団には
魅力がない。
プロだから、それはありだと思うが
僕のとは違う。
黒田も新井も何倍ものお金を蹴ってもどってきた。
それがチームの力になる。
そんなチームはカープだけだ。

応援してこようっと。

豊岡へ

Posted By on 2016年10月22日

今日は豊岡へ向かう。
昨年度に声掛けしていただいて
そこからいろいろな人とつながった。
豊岡で地道にがんばっている人たちに
少しでも役に立てれば幸いだ。

今回は、模擬授業をしてみないかと提案して
それを元に検討会も入れる。
ただ話を聞くだけではないから、
個々の関わり方も変わる。

以前はただ頼まれて話をしていただけだけれど、
この数年でセミナーや学校の指導助言に対する僕の考え方も変わってきた。
僕の構えが受け身的ではなくなってきたということだ。
これも、「教師教育」の一環だと考えている。

自分の立ち位置、これから進む道に迷いながら進んでいる。
迷いを晴らすのは勉強しかないんだけど、
勉強すればするほど
分からないことが増え続ける。

教員採用試験

Posted By on 2016年10月15日

今年も、教員採用試験の合格不合格の知らせが届く。
合格は扉を開くようなものだから、
心からおめでとうと言いたい。
不合格者には、
「どうってことない」
と言いたい。
人生は長い。
僕も、2回教員採用試験を落ちている。
神戸大学出身者の男子が落ちることは絶対にない、と言われていたときに。
すでに学生結婚していて、家内は中学国語を全く勉強しないで通ったのに。
人の三倍くらい試験勉強したのに。
落ちた。
ショックだった。
布団の中で涙が出た。辛かった。

その僕が、今、10校の公立校へ年間指導に入っている。
各地の教育委員会に呼ばれて行く。
人生って、そういうものだ。
僕が失敗する若手を受け止められているとしたら、
自分が失敗を繰り返してきたから。
教師は、子どもたちの挫折も受け止めてあげなければならないときがある。
失敗も、いつかは力になる。
乗り越えられないレベルの挫折は来ない。
どうってことない。

教育死語 ③

Posted By on 2016年10月11日

「びしっと、しめろ。」
「しめてかからないと・・・。」
未だにこの言葉を口にする教師がいるのは、哀しいことだ。
こんなものは、とっくの昔に死語となっているのに。
体罰容認の先にこの言葉がある。
「しめる」って、なんだ。
子どもに対して本来使うべき言葉ではない。
教育として使える言葉ではない。
体罰がオーケーだった時代に横行していた言葉だ。
その頃は、保護者にもそう言う方が多かったものだ。
「先生、びしっとしめてやって下さい。」
「びしばし、やってください。」
と、よく言われた。
子どもに体罰を奮ってもらってもいいと言う権利は、
親にもないのだという児童の権利の基本を思い出すべきだ。
びしっとが体罰でないとしたら、
いったい何だろう。
厳しくしろと言うことか。
それなら分からないでもない。
子どもに対しての厳しさも必要なのだから。
その厳しさの中身が、怖い顔と大声の叱責であるならば、
これも体罰につながりかねない。
びしっとじゃなく、
子どもたちをぴりっとする方法を考えていかねばならない。

教育死語 ②

Posted By on 2016年10月10日

「コア・カリキュラム」
コア・カリキュラムとは、
「学習者の生活上の問題を解決するための学習を中核におき,その周辺に基礎的な知識・技術を学習する課程を配する教育課程」のこと。
デューイとキルパトリックのプロジェクト・メソッドを戦後の日本の教育に導入したもの。
話し合い、協同学習、テーマ、地域との関わりなどといった言葉がキーワードである。
日本でも一時期流行したが、
「這いずり回る経験主義」
と言われ、消えていった。
今、大きく取り上げられている様々な「新しい教育の取り組み」とされているものは、
コア・カリキュラムと似ている。
というか、基本概念は同じじゃないのかなあ。
だから、再び這いずり回らないかという危惧を持たざるを得ない。
アクティブラーニングが二の舞にならないのかという危惧は
常に頭にある。
特にアクティブラーニングに関連させて「デューイを学びなおそう」等という意見を聞くと
どんなかなあと思ってしまう。
失敗したのはなぜかという検証ならいいけれどね。

教育死語

Posted By on 2016年10月9日

① 校内暴力
校内暴力という言葉は、1970年代の後半から1980年代にかけて、日本中を席巻した。
当時は主に高校での事件が多かった。
それが、しだいに低年齢化していき、小学校でも出てくるようになった。
でも、今、ほとんどこの言葉は使わない。
子どもの「荒れ」とか「学級崩壊」「学校崩壊」という言葉に取って代わられるようになった。
高校では、かなり減少してきたことが大きいかも知れない。
また、中高ではひどい暴力は警察案件になることも関係しているかもしれない。
昔から、荒れる子どもたちはたくさんいた。
テレビドラマの青春シリーズは、
いつもそういうアウトローの子どもたちと熱血先生との交流を描いていた。
荒れるのは、アウトローの子どもたちだった。
今は、どんな家庭の子どもたちも、荒れる。
それが今の学級崩壊・学校崩壊である。

12月2日 仙台親塾

Posted By on 2016年10月2日

仙台親塾も6回目です。
今回は、学習について語ります。
子どもにどの程度家庭学習させればよいのか。
どう工夫したら子どもの力になるのか。
「読み聞かせ」や読書がどのような効果を持つのか等、
さまざまな疑問にお応えします。
精神面と具体的な方法の両面についての話です。
就学前のお子さんを持たれる方は、今から、何が必要なのかということも。
今、学校に通っている場合は、国語の学習方法や算数の考え方について、具体的な話をします。
申し込みは下記へ。

http://kokucheese.com/s/event/index/426921/#about

続いて12月3日は
絵本の教室

絵本は心の栄養。
読み聞かせは、どんなふうに心にはたらきかけるのでしょう。
どんなに説明されるより、体験するのが一番です。心がじんわり温かくなったら、きっと子どもの心も温めてあげたくなるはず……。

講師に、追手門学院小学校の多賀一郎先生をお招きします。

子育て中の保護者のみなさん、
先生方、教育関係の方、
絵本に興味をお持ちの方はどなたも歓迎いたします。

第一部【 親子絵本教室 】
親子で、絵本の読み聞かせを体験してみませんか。
対象:3歳以上のお子さんと保護者の方
※大人だけの参加も可能です。

第二部 【本の読み聞かせが子どもを育てる】(講座)
本を読むことは、なぜ大切なのか、
子どもを本好きにするには、というテーマで、講演をしていただきます。

会費:第一部 大人1名500円 小人(3歳以上)500円
(お子さんの参加は何人でも一律)
第二部 2500円/人 ワンドリンク付
※第二部は大人対象の講座です。
両方受講の方は2500円(ワンドリンク付)

こちらは、下記へ

http://kokucheese.com/s/event/index/421264/

『全員を聞く子どもにする教室の作り方』14刷り

Posted By on 2016年10月1日

『全員を聞く子どもにする教室の作り方』
14刷り増刷になった。
毎年、いくつかの学校で「聞くこと」についての話を
させていただく。
今年も奈良で2回、2時間以上かけての話をした。

どこでも、一番必要なことだとみんなが考えるからだろう。
聞くことができない教室は荒れる。
聞き合えない共同学習は成立しない。
聞くことは、すべての基本につながる。
人の声を聞かない人間に進化はない。
僕はこの数年でもう少し「聞くこと」を
自分なりに深めてきたように思う。
『だいたいを聞く子どもにしたい教室の作り方』
なんて本はだめだろうなあ。
聞くことに関しては、いつかもう一度まとめて本にしたい。
新しい課題に対する「聞くこと」にもなんらかの提言ができると思うんだけど・・・。

教室の「あの子」 ③

Posted By on 2016年9月25日

使う言葉の吟味
「障害」という言葉は、
やはり人格否定されたような感じがしないだろうか。
「自分の子どもを障害者と呼ばれたくない」という、間違ってはいるが、当たり前の親心というものがある。
学校現場で医学的用語を使う必要などないのではないかと、いつも思っている。
「自閉症」という言葉は、引きこもりや閉じこもりを連想させる。
直訳すれば「自ら閉ざした症状」ということになって、この字がイメージを作ってしまう。
自分勝手なんだとか、親のしつけの問題だとか言うひとがいるのは
この言葉のニュアンスが影響していないのだろうか。
「自閉症スペクトラム」は、「オーティーズ」って言うと、
なんとなくアバウトでかっこいいニュアンスに変わる。
「うちの子、自閉症みたいなの。」
とは、言いにくくても、
「うちの子ってさあ、オーティズムなんだよね。」
なら、話しやすく感じないだろうか。
そんなに軽くないか。
漢語は、ものごとを適当にしないで、はっきりと示す。
法律用語や医学用語としてはそれで良いかも知れないが、
教育の現場では、それがレッテルになってしまったり、
子どもの状況を正しく言い表さなかったりすることもあるのかも知れない。
(以前の書き込みを書き足して・・・)

教室の「あの子」 ②

Posted By on 2016年9月25日

「知らないことが意地悪になる」理論
 白い杖をついて歩いている方がぶつかってきたとき、
「バカ野郎!どこ向いてあるいているんだ。」
と、怒鳴る人はいない。
どちらかというと、気づかなかった自分を恥じる。

 片側の耳が聞こえないという障碍を持った子どもがいた。
 その子を聞こえない方向から呼んでも呼んでも返事をしないので、
「ちゃんと人の話は聞きなさい、」
と、叱った先生がいた。
しかし、叱られた子どもの方は、聞こえていないのだから、
なんで叱られたのかが、全くわからなかった、ということがあった。
ぱっと見て目に見えない障碍は、とらえにくく、
意地悪になってしまうことの端的な例である。

教室の「あの子」も
障碍が分かりにくい。
だから、いじめやいじわるの対象になりやすいのだと思う。
「ちがい」がわかりにくいからだ。