Posted By taga on 2016年11月12日
毎年、特別支援教室で読み聞かせをさせていただく。
いつもは、二十五分~三十分という時間内で読んでいる。
今回、僕はアバウトな時間設定で臨んだ。
子ども達の反応次第で読むのをやめようと思っていた。
しかし、結局四十五分間、読み切ったし、
子ども達も最後は疲れた子どももいたが
しっかり聞いていた。
ここでの読み聞かせは、僕にいつもたくさんのことを教えてくれる。
全く反応しない子どもがいる。
でも、彼は目の表情が豊かで
眼が感情を伝えてくる。
「ああ、今、この子じいんとしているんだなあ。」
「おもしろがってるなあ。」
と、目だけで語りかけてくる。
この子たちとは、ほんといつも、真剣勝負している感じである。
読んだ本は、以下の通り。
『けしごむくん』
『おいしい音』
『おとなになったら、なにになる?』
『まいごのどんぐり』
『こうさぎましろのお話』
読み終わって、どれが良かったかたずねると、
いつもばらばらである。
そこがいい。
担任の先生方にもそれによっての気づきがあるようで、うれしい。
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Posted By taga on 2016年11月11日
朝の明けきらぬうちに犬と散歩。
帰ってきて朝ご飯。
朝はゆっくりとらないと、体調がおかしくなる。
電車は普通にのって、あえて長い時間をかけて座っていく。
その間にいろいろな原稿を書いたり
読みたい本を読んだりする。
僕のカバンにはいつも、何種類かのノートが入っている。
追手門に着いて自分の部屋に入ったら
コーヒーを淹れてまずはリラックスする。
ベランダの窓を開けて空気を入れ替えると同時に
ベランダにボールが落ちていないか確認する。
子ども達が遊んでいて、よく二回のベランダにボールを上げてしまうからだ。
見つけたら、もちろん運動場のよく見える所へ投げる。
それから、今日の予定を確認する。
例えば、
二時間目は、一年生の授業参観。
三時間目は、四年の先生の指導を部屋で。
四時間目は、四年の劇をフォロー。
五時間目は、二年生で僕がブックトークする。
というように。
昼から少し早目に出て
公立の研究会に指導助言や講師として行くこともある。
帰りの電車は、半分は寝ている。
原稿を書いているときもある。
電車の中って、集中できるんだなあ。
帰宅したら、犬と少したわむれて
テレビを観ながらいろんな仕事をする。
昔で言う「ながら族」である。
メールチェックして、各所に連絡して
後はパソコンで原稿の仕上げや講演の資料づくり。
呑みに行かない日は、早く寝る。
これが基本の日常スタイル。
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Posted By taga on 2016年11月10日
僕は出勤するときにときどき
交代して帰られる警備員さんに出会うときがある。
今朝は、向こうから「多賀先生」
と声を掛けられるまで気づかなかった。
制服を着てしゃんとしていらっしゃるときと
私服で歩いていらっしゃるときとは、
雰囲気が違うから。
しかも、その方とは初めて会話したくらいだったから。
でも、立ち話だが、いろいろなことが話せた。
「こういう方だったんだなあ。」
と思った、というのは
いつも厳しい顔で挨拶しても会釈だけされる方だったのでね。
四年目にして初めての会話。
思うんだけど、
やっぱり毎朝、僕が笑顔で挨拶してきたことは大きかったんじゃないかなあ。
僕は校門をくぐるときに憂鬱なことはせ全くない。
追手門小学校でストレスは全然ないからだ。
だから、いつも笑顔で挨拶ができる。
これって、とても大事な事なんだなあと思った朝。
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Posted By taga on 2016年11月9日
僕は今、無性に腹が立っている。
こんな怒りはいついらいだろうか。
怒りに任せて投稿はしないし、
怒りをエネルギーにしての行動はとらない。
しかし、
「気づけよ!」
と叫びたい。
電通の女性社員の自殺で
お母さんが言葉を発していた、
「社員の命を預かっているという責任感を持って本気で改革に取り組んでもらいたい」
この言葉の重さが分かるだろうか。
学校の管理職の皆さんも
若い先生の命を預かっているという責任感を持っていただきたい。
その意識があれば、表情を見るだろう。
追い詰められているのかいないのかなんて、
ベテランの教師ならわかるだろう。
一声かけてもらうだけで、
見てもらっていると思えるだけで
心は救われる。
話をちゃんと聞いてもらえたら、聞いてくれるという安心感が生まれる。
管理職は管理だけする仕事ではない。
「命と心を預かる仕事」なのだ。
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Posted By taga on 2016年10月29日
はっきり言おう。
スリッパを履いて教壇に立っている教師に
災害への心構えなど、ない。
そのとき、地震が起こったら、子どもたちを誘導しなければならない。
けがをした子どもがいたら、
背負わなくてはならないかもしれない。
そんなときにスリッパ履いていて、役に立つのか。
僕は必ず上靴を履いていた。
学校ではさまざまなアクシデントが起こる。
とっさに走らなければならないときもある。
僕は何度か血だらけの子どもを背負って走った。
万一災害が起きたら、
自分の足元はそれに対応できるのか。
そんなことを考えたことがあるのだろうか。
「着脱が便利だから。」
「水虫になりにくいから。」
「軽くて楽だから。」
全て教師目線の理由だ。
子どもたちのためにこういう理由でスリッパを履いていると
胸張って言えるものなら、言ってみろってんだ。
スリッパはトイレだけにしろ、と言いたい。
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Posted By taga on 2016年10月28日
大川小学校の裁判で
弁護士の掲げた
「先生のいうことを聞いてたのに!」
という横断幕にものすごい抵抗を感じる。
教師はいざとなったら、子どもたちの命を預かる立場だということは
常に意識しておかねばならない。
大川小のことは、そのことを教師たちにつきつけてくるのだ。
しかし、ともに亡くなった教師たちも必死だったはずだ。
不幸にも判断が間違っていた。
僕は、そのことでここまで亡くなった教師たちを責めることには
抵抗を感じてしまう。
子どもたちの遺族の方がそういうふうに思われることは
ある意味当然かもしれない。
でもね、子どもたちと共に命を落とした先生の遺族は
あの横断幕をどんな思いで見たのだろうか。
僕はそれを思うと、胸がつぶれるようになる。
Category: 社会問題・教育問題 |
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Posted By taga on 2016年10月27日
昨日、良寛の恋のことを書いたが、
最近、有名な歌さえ知らない方がいらっしゃるので
いくつか紹介する。
「この里に
手まりつきつつ子どもらと
遊ぶ春日は
暮れずともよし」
「あすよりの
のちのよすがはいざ知らず
今日の一日は
酔ひにけらしも」
如何なるが
苦しきものと問ふならば
人をへだつる心と
こたへよ」
「自戒のことば
こころよからぬものはーー
ことばの多き、口のはやき さしで口
手がら話 へらず口
唐ことばを好みてつかふ
おのが意地をはりとほす
もの知り顔のはなし
この事すまぬうちにかのこといふ
くれてのち其のこと人にかたる
返すといひて返さぬ
にくき心をもちて人を叱る
悟りくさき話 ふしぎばなし
神仏のことかろがろしくさたする
親切げにものいふ
人にものくれぬさきにそのこといふ
おれがかいしたかうしたといふ
この人にいうべきをあの人にいふ
・・・・
をろかなる人をあなどる
かたことを好みてつかふ」
全部書かないけどシンプルな人が到達した境地は美しいということだ。
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月26日
良寛と貞心尼は言葉で恋を紡いでいく。
言の葉は人の思いを深める。
「秋萩の
花咲く頃を待ち遠み
夏草分けて
またも気にけり
貞心尼」
御かへし
「秋萩の
咲くを遠みと夏草の
露をわけわけ
訪ひし君はも
良寛」
肉体を中心としたつながりは脆い。
言葉を紡ぎ合うことにより
精神をつなげていくということだ。
言葉は二人だけの世界を創っていく。
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月25日
良寛というと、
竹の成長に合わせて床や庇を切ったことや
蚊に血を吸わせるのが自然だというような
常人にはないような慈しみあふれた話で有名だ。
お経を読まず、説法もしない自由人のお坊さん。
本来は歌人として有名だ。
晩年、
子供ほど年の離れた貞心尼と恋に落ち
二人で歌を詠み交わしている。
こちらの方も人間的だ。
これほど純粋に愛を語り合った詩は
類を見ない。
・・・はじめてあひ見奉りて
「君にかく相見ることのうれしさも
まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」貞心尼
御かえし
「夢の世にかつまどろみてゆめをまた
語るもゆめもそれがまにまに」良寛
田中和雄の『良寛さんのうた』精興社 より
Category: 国語教育 |
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Posted By taga on 2016年10月24日
沖縄での「土人」発言事件。
言葉そのものの怖さをまず感じる。
発言した警官は、おそらく大して考えずに言ったのだろうと思っている。
大阪の警官が沖縄に対して差別意識を持っているとは、考え難い。
関西の厳しい地域において、
「おまえら、なにやっとんどい。」
「どかんかい、こら。」
等というような言葉は、当たり前のように使われる。
「みなさん、何をしているんですか。」
「ちょっとそこは、どいてください。」
等とは絶対に言わない。
その警官たちは、なんにも知らないのだろう。
沖縄の人たちの歴史も思いも。
しかし、言葉は怖い。
言葉には歴史がある。
背景がある。
「不適切だ」ではおさまらない。
日本軍が沖縄に駐留していた時、沖縄の人たちを差別した歴史がある。
日本軍のいた地域だけ、住民が大勢亡くなっている。
東北出身の兵士たちだけは沖縄の人たちを馬鹿にしなかった。
それは、東北弁の兵士たちが、軍隊の中では差別されていたこととも関連している。
県別の慰霊塔の中で、沖縄の人たちがお金を出して立てたのは東北の兵士たちのものだけだという。
そんなことを知っていたら「土人」などという言葉は使わない。
知らないからだ。
知らないことは、人を侮蔑することになる。
知らなければ人を傷つけることがある。
だから、どんな人間も「知ること」の大切さを意識しなければならない。
Category: 未分類, 言葉に関すること |
「土人」という言葉の投げかけるもの はコメントを受け付けていません
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