Posted By taga on 2018年5月2日
本能がない人間
人類はこの世に出現してから
100万年もたっていない。
ネアンデルタール人からでも50万年くらい前だ。
だから、まだ本能は確立していないというのが、僕の神戸大学の恩師佐守先生の教えだ。
本能がないから、
人間なら必ずそうするというものを持たない。
子どもを守り大切にするということが
選択肢になり得る。
虐待もする。
我が子を投げ降ろして殺すこともする。
佐守先生は
「愛とは選択肢です。」
と言う。
そのことをずっと僕は考えてきた。
今は、それだけではないと考えている。
選びようもない衝動というのが「愛」にはあると思う。
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Posted By taga on 2018年4月29日
唐津絵本の会の懇親会で
愛があるとかないとかの話になった。
若手を育てることについての話だ。
僕が言ったのは、
厳しい言葉をかけるときは
愛がなければならないということ。
愛も持たずに厳しくするのは
ただのいじめか自己満足だということ。
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Posted By taga on 2018年4月26日
「ある愛の詩」という映画があった。エリックシーガルの原作で、昔、一斉を風靡した映画である。
映画のサブタイトルは、「愛とは、決して後悔しないこと」だった。
「Love means never having to say you’re sorry」
でも、これは、「愛とは、決して後悔しないこと」という意味ではない。
直訳すれば、「愛は、ごめんなさいって言わないことなのよ。」ということだろうか。
このセリフは、詩を間近にしたアリ・マックグロウが、ライアン・オニールに言うセリフで、一番泣かせるとこなのだが、これと同じような言葉が、ラストに出てくる。
最後まで結婚を認めなかった父親が、彼女の最期にやってきてライアン・オニールに謝るのだが、そのために二人が苦労をしてきた。だから、息子は父親を恨んでいた。
そのときにライアン・オニールの発した言葉が、
「Love is not to say sorry」という言葉で、映画では、「愛とは決して後悔しないことです。」と、父親に息子が言ったことになっていた。
これも、違っている。「Love is not to say sorry」 言い換えれば、「愛していたら、ごめんなんて言わないもんだよ。」という意味。
つまり、息子は父親に
「あなたは、今頃謝るけれども、自分を愛していたら、謝るなんてことはなかった。つまり、あなたの愛は本当の愛だとは、認めない。」
という意味だったのだ。
子どもを愛しているというなら、今、愛していることを分かる形で伝えるべきだということである。
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Posted By taga on 2018年4月24日
愛のボタンも掛け違う
庭に小手毬の木が二つある。
13年前に頂いたものを植え替えたもので、毎年美しく咲き誇る。
一年生の担任を終わった春休みに
お母さんが持ってきて下さったものだ。
とても子ども思いのお母さんだった。
愛情の深い方だった。
子どももとてもお母さん思いで繊細な子どもだった。
だのに、ボタンを掛け違えてしまっていた。
僕が子どもから思いを聞き取って、懇談で語ったとき
ぽろぽろと涙をこぼしながら、でも、目をそむけずに聞いてくださった。
その日から、二人でボタンをかけ直した。
時間はかかったけれども、親子だから、大すき同士だから、
すてきな関係になっていった。
そのお礼に頂いたもの。
この木が咲く度に二人の笑顔を思い出す。
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Posted By taga on 2018年4月23日
「私は子どもを愛しています。」
「子どもを愛さない親なんていません。」
等ということは、誰にでも言える。
そういうお母さんの子どもがいつもぼろぼろの服を着ていたら
髪の毛も全く手入れせずに学校へ来ていたら、
それを「愛」と呼んでいいのだろうか。
愛していると伝えなければ
愛を感じることはできない。
「愛があれば、きっと通じる」ということも、ない。
愛されているという実感のない子どもは不安定になる。
愛は見える。
愛は聞こえる。
愛は触れることもできる。
見ざる聞かざる触れざるは、愛とは言えない。
見えて聞こえて触れ合って
初めて、人は愛を実感できる。
愛には形があるということだ。
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Posted By taga on 2018年4月22日
子どもを愛するって、どういうことだろうか。
恩師、佐守信夫先生は、
「人間だけが愛を持っている」
と、おっしゃっていた。
「ペンギンの親は何週間も食べ物も食べずに卵を守り続けます。
でも、それは愛ではありません。
なぜなら、それは本能だからです。
どのペンギンもそうするように遺伝子に組み込まれているのです。
しかし、人間は生まれたばかりの赤ちゃんをコインロッカーに捨てる親もいます。
選択肢があるのです、人間には。
子どもを大切にする方向を選択することを『愛』と呼ぶのです。」
僕はずっとそのことを頭に置いて教育に携わってきた。
選択できるのが人間の特質であるとするならば、
選択することの意味を伝えていかねばならない。
つまり、愛も学ぶべきものなのである。
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Posted By taga on 2018年4月17日
5年生の控室に行っていた時
「多賀先生、僕の社会科を見に来てくれはったんですか?」
と、中堅の先生に声をかけられて
ちょうど空き時間だったので、見させてもらった。
最初は起立ー礼の指導。
こういうのを毛嫌いする先生も世の中にはいるが、
追手門はこれでいい。
授業をきちっと始めることは、悪いことではない。
それを怒鳴りつけてさせるのが良くないだけだ。
この先生は声が明るい。
それだけでヒドゥンカリキュラムになる。
一週間で、もう子どもたちが集中して聞いている。さすがだ。
「立って、机の右に立つのはどうしてかな?」
そこから入る。
「室町時代からのことが関係あります。」 (エッ?! そこ?)
「武士は刀を左側に差します。なぜか分かりますか?」
当時の人は全員が右利きだからです。」
子「えーっ!」
「左利きも必ず右利きに強制されました。」
子「二刀流は両方に差しますが・・・。」
「二刀流は実際はできません。同時に抜いたら、両手を斬ってしまいます。(実演)」
子( ´∀` )
こんな調子で、子どもの関係ない質問にもいちいちさらっと対応して、自分の道筋は崩さない。
完全な一斉指導だけれども、ときどき笑が入りながらテンポよく進むので
子どもたちはどんどんついていく。
ボディランゲージあり、メリハリあり。
質問してきた子どもに、その場では対応しきれないとき
「うーん。そりゃ先生も分からないから、調べて来て、明日みんなに教えること。
特別宿題。」
言われた子どももなんとなくうれしそう。
5年の社会科は一時間の情報量がとても多くなるから
こういうテンポは必要なのだ。
親潮と黒潮をしていたときに、赤潮の質問に対して、
「教室を密閉して、5年生全員と6年生も全部入ってきて、全校生も入ってきたら・・・。」
と、たとえが面白い。
こういうのがポンポンと出てくる。
本人は教育漫談と言われますと笑っていたが、
優れた一斉授業だった。
僕が指摘したのは一点だけ。
それもレベルをさらに求めてのことだった。
いやあ、面白かった。
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Posted By taga on 2018年4月16日
今年も新任の先生がやってきた。
最初の授業。
思っていたよりも、はっきりとした言葉で
後ろの方まで声が通っていた。
一週間で声は嗄れてきたけど・・・。
たくさん目につくことがある。
細かいところができていないのは当たり前だ。
この中で、今のこの先生にとって必要なものは何かを選別して伝える。
全部伝えていたら、右往左往してしまうだろう。
工夫して自分なりにがんばっているから、教えがいがある。
何よりも、偉そうな態度で「先生面」しないのがいい。
「黙って立っていても、話は聞いてくれません。」
「そうでしょ。そんな甘いものではないんだよ。」
ベテランは黙って立っていても聞いてもらえるように見える。
明日、『ヒドゥンカリキュラム入門』を貸そうかなあ。
明るくて元気だから、乗り切っていくだろう。
ぶつかってから考えた方がいいと思っている。
「失敗はいくらでもやりなさい。」
そう。
若い先生たちには失うものはないのだから、すべてが学び。
僕が彼女を指差して、
「どんな気持ちがしますか?」
と聞いた。
「プレッシャーを感じます。どきっとします。」
「そうでしょ。だから、子どもを注意するときしか使わない方がいい。
あなたは、褒める時にも使っている。」
「あなたはすごいね。新任の先生はみんなオウム返しをするんだよ。
あなたは、ほとんどオウム返しをしない。」
「そういえば、他の子どもに、今なんて言ったか言ってみて、と言っています。」
「そんな初任は初めてだよ。ところで、なんでオウム返しがいけないか分かりますか・・・・・・。」
追手門で僕が預かる最後の初任者。
育ってほしいと願うばかりである。
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Posted By taga on 2018年4月13日
新年度が始まり、クラスも学年も担任も代わり、
子どもたちの気分もリフレッシュされています。
学校には新鮮な空気が流れています。
長いこと穴倉にいると、外に出たときの明るさに目がくらみます。
それと同じように、みんなの新鮮な明るい空気になじめない子どもも、
少しではありますが、存在するものです。
不登校だった子どもが学校にやってきた。
それは大きなきっかけとなるかも知れません。
しかし、リハビリに時間がかかることと同じです。
その日からすぐにちゃんとやってこれるようになった、
なんていう単純なことはないのです。
無理のないように、少しずつリハビリするようなものだと
教師もおうちの方も考えた方がいい。
大喜びせず、でも、ちょっと喜ぶ。
期待せず、でも、後ろで支える。
つまずいても、がっかりしない。
つまずきながら、ぼちぼちといければ良い。
学校だけが選択肢ではないが、学校に行けるということは、悪いことではない。
でも、ゆったりと考えて時間の流れを変えてみていくことですね。
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Posted By taga on 2018年4月8日
年度末のリア充投稿には
喜びと充実があふれている。
その年が苦しかった教師には、見るのさえ辛いものだ。
でもね、それが本当にすべてがみえているのかどうかも分からないんだよ。
「子どもたちのサプライズに全く気付かなくて、
とてもうれしかった。」
というような投稿を見ると、
「そのクラス大丈夫なの?」
と思ってしまう。
だって、ほんとにそういう子どもたちの動きに気づけないのなら
陰でいじめが進行していても気づかないんじゃないのかな?
年度当初のリア充投稿にも惑わされる必要はない。
自分の意に沿わないポジションになるときだって、人生にはよくある。
いつもいつも新学期をあでやかにスタートできないときだってある。
僕は、この一年がうまくいかなかったら教師を辞めようと思ったときがある。
でも、そのときに出会った子どもたちが、はちゃめちゃすぎて、
そんなことは吹き飛んでしまった。
四月の当初から、休む間もなくトラブル続き。
でも、今から思えば、その子たちが僕を立ち直らせてくれたのだろう。
教師の仕事がほんとはどういう意味があったのかということは
長い年月を経ないと分からない。
人生の1ページなのだということを頭に置いておこう。
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リア充にまどわされない はコメントを受け付けていません
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