多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

多賀一郎・堀裕嗣・山田将由の「聞く子どもを育てる」セミナー

Posted By on 2014年10月6日

東京で本格的に聞くことをやるのは、はじめてだ。
午後は1時間ずつだが、堀さんの聞くファシリだけ1時間10分と多めにとっているのは
それだけ、考える時間が必要だからだ。
3人の全くタイプの違った教師が
さまざまな「聞くこと」のアプローチをする。
視点が違うということが、幅を持たせる。
テーマはしっかりと外さない。
この日は、子どもの聴くとはどういうことか。
聴くクラスとは何か。
教師はどう考えていくか。
たっぷりと考えられる一日にしたい。

多賀一郎・堀裕嗣・山田将由の「聞く子どもを育てる」セミナー

聞くことは、授業づくり・学級づくりにおいて、最も基本です。ところが、なかなか子どもが聞き取れない、集中して聞けないということで悩む方も多いようです。一度、じっくりと聞くこと・聞き合うこと・聞かせる方法などについて考えてみませんか。
最近、多様なメッセージを頻出して話題の堀裕嗣。国語教育で模索し続けている多賀一郎。新進気鋭の実践家の山田将由の異色の三人が、丸一日「聞くこと」について語ります。北海道の中学教師、関西の小学校教師、関東の実践派教師のそれぞれの主張から、自分に合った考えや方法を見つけられると思います。

日時 2014年12月14日 9時半~16時半
場所 東京都立産業振興センター 浜松町会館
http://www.sanbo.metro.tokyo.jp/access.html
日程 9痔40分~10時20分   山田 「集中して聴かせるコツ」
10時30分~11時10分  堀 「聞くこととは」
11時20分~12時     多賀「聞かせる話し方」
昼休み
13時00分~14時10分  堀「聞き合うファシリテーションの授業」
14時20分~15時20分  山田「聞く授業のアイデア」
15時30分~16時30分  多賀「聞く子どもにするヒドゥンカリキュラム」

参加費 4,000円(税込)
定員 50人(先着順)

申し込みは、ここから

http://kokucheese.com/event/index/221932/

 

久しぶりに、朝、ゆっくり

Posted By on 2014年10月6日

久しぶりにゆっくりできたので、

音楽と珈琲 プラス アーモンドバターラスク

このプラスのために、ウエストがもどらないのかも。

 

まずは「アサヒのようにさわやかに」MJQ

朝のスタートにミルト・ジャクソンのバイブは心地よい。

読んでる本がコルトハーヘンだったりするので

頭をちょうど落ち着かせてくれる。

 

そして、少し重くアシュケナージの「ラフマニ」。

アシュケナージ命の追手門の教頭がうるさいから聴いている

というわけではないが、僕にはグールドが合う。

クラシックは、よくわかんないが。

続いて、読書も置いて、気分転換に湘南の風「パズル」

そして、スティービー・ワンダー。

これらは、口ずさむから、読書はストップ。

また、本に向かい、山本剛の「黒いオルフェ」

そして、黒田卓也の「ライジング・サン」

一年生のときの卓也の顔を思い浮かべると、ジャケットと全く一致しない。

ただ、教え子ではなくても、このアルバムは買っていただろう。

文字文化としての文学性〔文学性⑤〕

Posted By on 2014年10月5日

映画やアニメの世界にも「文学性」は存在する。

というか、文学性のないものは、ヒットしないと言っても過言ではないだろう。

けれども、文字文化としての文学というものと、

映像文化とは、はっきりと一線を画する。

文字で表された言葉から想像するということは、

全ての人たちが、みな違うことを描くということだ。

「ネコ」という言葉で考えてみよう。

宮崎駿の「魔女の宅急便」に出てくるネコは、

このアニメを観た全ての人が同じ色と感じを持つ。

大きさも全く同じものしか考えられない。

だれもこのネコを「にくたらしい」とか「かわいそう」だとかは思わない。

そこには、各自が自由に想像できる余地などない。

しかし、物語文の中に「一匹のネコが現れた。」という表現があったら、どうだろう。

家でかわいいアメショーを飼っていたら、かわいくじゃれついてくるネコが浮かぶだろう。

野良猫に庭を荒らされてばかりいたら、

にくたらしい敵のように感じるかも知れない。

自分の経験と照らし合わせて想像することになる。

そこが、文字文化とアニメや映画などの映像文化との違いだ。

文字は言葉になり、分節、文章へと紡がれていき、

初めて意味のある文学になる。

そして、その意味は、読み手一人一人の主体性によって読み解かれていくという特異性を持つ。

だから、授業として文学を取り扱うときには、いつも、

「今、作者の描いている世界と近いものを、読み手である子どもたちが描けているのかどうか。」

ということを意識しなければならないのである。

 

幼児期から低学年の文学体験〔文学性④〕

Posted By on 2014年10月4日

この頃の子ども達は、未分化状態(自分と他者との区別がつきにくい)である。

物語文を読んでいくときに、主人公と同化して(なり切って)読んでいく。

従って、この時期の子どもたちが物語文を読むと、

主人公が体験して感じる思いは、

そのまま同じように心の体験として残っていく。

幼いころに読んだのが最後の一場面が、

大人になっても、時々、鮮明に浮かんでくることはないだろうか?

それは、その間接的な体験が自分の体験のようになってしまっているからだと考えている。

僕が幼い子どもたちに本を薦めるとき、

人間の残酷性や世の中の理不尽さや醜さを描いた作品を避けるようにとているのは、

そのためだ。

年齢が進めば、そういった人間性を否定したようなことでも理解して、生き方を考えていくことが必要である。そういうものを高学年以上では読ませていって良いだろう。それも文学性だ。

しかし、幼児期~低学年の未分化な子どもたちには、

心の中に美しいものを入れてやりたいと思う。心の間接体験は、

真善美のある文学を薦めていきたい。

それらが人生における心の柱を強化してくれると考えるからだ。

 

苦しいこと、悲しいこと、辛いこと〔文学性③〕

Posted By on 2014年10月3日

なぜ人は、苦しく辛い文学を読むのだろうか。

読んでいて苦しいはずなのに、どうして手に取ったり、読み続けてしまったりするのだろうか。

 

それは、そこに、人間の生き方(「生きざま」じゃなく)というものを見るからだ。

どんな苦しみや悲しみの中にあっても、懸命に生きようとする人間の姿に心を打たれ、

自分を奮い起こすことができるからだ。

「ひとつの花」(今西祐行)「川とノリオ」(いぬいとみこ)等の平和文学がある。

「ひとつの花」は、戦争と言う悲しみの中にも、

美しいものを大切にする心の素晴らしさを

読み手である子どもたちに伝えてくれる。

「川とノリオ」は、悲惨で辛い思いを描いてはいるけれども、

その中で懸命に生きている主人公の姿に、心を打たれる。

そして、自らの生き方につなげていくことができる。

「かあちゃん、かえれ。」と鎌をふるうノリオの思いは、

どれほど苦しかろうとも、人は生き続けなくてはならないし、

力強く自分が踏ん張るしかないということを教えてくれる。

これらは、まさしく「文学性」だと、僕は考えている。

(このテーマをそのまま子どもに教えるかどうかということとは、別次元の話である。)

 

12月14日、東京です

Posted By on 2014年10月2日

聞くことは、授業づくり・学級づくりにおいて、最も基本です。ところが、なかなか子どもが聞き取れない、集中して聞けないということで悩む方も多いようです。一度、じっくりと聞くこと・聞き合うこと・聞かせる方法などについて考えてみませんか。
最近、多様なメッセージを頻出して話題の堀裕嗣。国語教育で模索し続けている多賀一郎。新進気鋭の実践家の山田将由の異色の三人が、丸一日「聞くこと」について語ります。北海道の中学教師、関西の小学校教師、関東の実践派教師のそれぞれの主張から、自分に合った考えや方法を見つけられると思います。

日時 2014年12月14日 9時半~16時半
場所 東京都立産業振興センター 浜松町会館
http://www.sanbo.metro.tokyo.jp/access.html
日程 9痔40分~10時20分   山田 「集中して聴かせるコツ」
10時30分~11時10分  堀 「聞くこととは」
11時20分~12時     多賀「聞かせる話し方」
昼休み
13時00分~14時10分  堀「聞き合うファシリテーションの授業」
14時20分~15時20分  山田「聞く授業のアイデア」
15時30分~16時30分  多賀「聞く子どもにするヒドゥンカリキュラム」

申し込みは、ここから。

http://kokucheese.com/event/index/221932/

 

 

自分を見つめ直す〔文学性 ②〕

Posted By on 2014年10月2日

文学を読んでいるとき、人は自らの経験や考えと登場人物の言動とを比べて、

反発したり共感したりしながら読んでいく。

ときには、自分のそれと重ね合わせていくこともある。

それは、自分の考える道筋をたどることであり、

自らの考えを反省・深化することでもある。

 

六年生の教材「カレーライス」(重松清)を読みなから、

六年生の子どもは、自分と父親との関係はどうであったかと、振り返らざるを得ない。

父親のいない子どもは、父親と言うものの存在を感じ取るかも知れない。

時には、母親に対しても同じようにケンカをしてしまったことがあると振り返るかも知れない。

個々の人間によって、人生の経験は全く違っている。

人は文学の中に自分の課題を見つけ出して、深く考えていこうとするものだ。

 

文学性ということ

Posted By on 2014年10月1日

文学性ということを否定して国語の授業をしている教師がいる。

「そんな曖昧なことよりも、言語の力をつけることが重要だ。」

という、もっともらしい意見がある。

僕からすれば、これは、国語教育の否定にしか聞こえない。

 

文学というものは、人の心の隙間を流れるように潤していく、潤滑油のようなものだ。なんてことを言うと、

「また、曖昧な言葉で誤魔化している」

と言われるかも知れない。

しかし、人の心には、いろいろなところに隙間が空いている。そこに潤滑油のように流れて潤してくれるものが「文学性」だと思っている。

よく、「ぱさぱさに乾いた心」と言うような言い方を聞くが、これは人が文学性を失った状態であるともいえるだろう。

 

心が乾くときというのは、さまざまだ。

叱られたとき、どなりつけられたとき、傷つけられたとき、大切な人や物を失ったとき、疎外されたとき、自己否定したとき、心が汚れたとき・・・。

文学は、そのさまざまなケースに対応して、幾種類もの潤滑油を提供できる。

ぬくもりであったり、癒しであったり、安らぎであったり、どんなうるおいでも存在しているのが、文学のすごいところだ。

 

土木作業

Posted By on 2014年9月30日

教師の仕事の中に土木作業というものがあることを

一般の方は知らない。

 

運動会の練習をしなくてはならない。

でも、前日からの雨で、運動場に水たまりがある。

かわくまで手をこまぬいているわけにはいかない。

 

そこで、先生たちは運動場に出て、

真砂土を運んできて、水たまりを埋めていく。

ひどい時は、まず、鉄の杭などで穴をあけて水をしみこませる。

雑巾を重ねて水を搾り取ることもある。

 

そうやって整地して、グラウンドコンディションを作っていく。

教師は、ホワイトカラーではないのだ。

 

以前、誤って砂場の砂を蒔いた先生がいた。

そこは、とっても走りにくくなってしまった。

土質に対する知識も必要なのだ。

 

 

部活を民間委託すること

Posted By on 2014年9月29日

橋下さんの教育改革には

ほとんど賛同できないが、

この部活動を教師の手から放していくという発想は

支持したい。

 

土日も、平日の夕方も全て時間をとられて、

教科の力をつけられるはずがない。

なんて言うと、

「おれは、やっている。」

と、優秀な先生が言うかも知れない。

しかし、その優秀な先生が、土日に研鑽し

平日の夕方にプラス2時間教材研究できたら、

もっと凄い授業ができる。

 

ところで、問題は、1000人の指導者の確保と

50億円と言われる予算の確保。

大阪市の教員の給与はかなり低い。

その上で、外部に予算を割くとなると・・・。

今のままでは、優秀な教師の確保が難しくなっている。