多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

はずむ話

Posted By on 2014年9月28日

23歳と41歳の卒業生と飲んでいて

二人が同じようなことで話がはずむ。

 

読み聞かせした本の話。

ストーリイテリングした話。

「『海底二万里』を読んでもらって、本が楽しくなった。」

「私はそれは読んでもらってません。

お話してもらいました。」

「歴史の話とかしてもらったよね。」

 

やっぱり、絵本やお話が心に残っていくんだなあと思わされる。

 

「私たちの学年は、最初、ぐちゃぐちゃだったから、

多賀先生が黒板に『学級』という字をばらばらに書いて、

『君たちのことだ。』って、言われた。」

・・・そんなこともあったなあ。

それをしたのは、二学年だけだった。

 

18歳も違う二人が、

僕が担任だったということで、話が弾む。

これって、なんか楽しいことだなあ。

 

僕はいつも、教え子たちに元気をもらう。

 

デトックス

Posted By on 2014年9月27日

僕はもともと毒のある人間で

ときどきその毒を出さないと自家中毒のようになってしまう。

 

フェイスブックだと、なんだか毒が出しにくい。

いいことオンパレードだからだ。

それも否定はしない。

僕もそういう書き込みをする。

けれども、僕は、そればかりではない。

厳しいところは厳しいということを、

僕に近い人たちは知っている。

 

僕の信頼している一番弟子といってもいい教師は、

実戦を僕に見せるときは

「まだ中途半端なので、きちんとしてから、先生に見てもらいます。」

と言う。

彼はかなりの実践家なのにだ。

 

突然、彼の授業を覗きに行ったら、しどろもどろになったことがある。

「緊張しました。先生はこわいんです。」

と、はっきり言われた。

 

この前、赤坂真二君が、僕のセミナーでのコメントに対して

「久しぶりに多賀先生らしいコメントを聞きました。

やわらかい言葉で、きついことを言いましたね。」

と言ったが、「僕らしい」って、何なんだろうなあ。

 

辛口も甘口も全て、僕らしさなんだと思う。

 

言葉に納得

Posted By on 2014年9月26日

ある刺激の強い新書を読んでいて、

ネット関係の言葉に納得。

 

なんとなくそう思っていたことを、

この筆者は、的確な言葉で表してくれる。

ある意味、すっとする。

 

「ネットにはびこる『ポジティブ教』『新時代絶賛教』」

フェイスブックでの実名文化の定着を受けて、

「美辞麗句化現象」

「前向き発言推進化現象」

「頑張る若者応援化現象」

 

もっと過激な言葉が並ぶが、

ブログもネットだから、ここまでにしておこう。

 

この筆者の考えを全て認めるわけではないが、

上にあげた言葉は、

僕が最近フェイスブックで違和感を感じていたことを表している。

 

あっ、この本は

「夢、死ね!」中川淳一郎

 

秋の七草

Posted By on 2014年9月25日

散歩中に薄の群生を見ていて

ふと、秋の七草を思う。

萩、桔梗、薄、撫子、女郎花、・・・

ここまではすっと出るのだが、

そこからがなかなか出てこない。

 

藤袴がなんとか出てきて、

あと一つがどうしても出てこなかったので、

調べてみると、

葛。

これ、いつも出てこないんだよなあ。

 

ちなみに、春の七草は、みんな食べられるものばかりだけど、

秋の七草は愛でるものばかりだなあ。

 

果物など、食欲の秋にふさわしいものがたくさんあるから、

美しい植物を愛でようよ、

ということかも知れない。

 

誰でもできる?

Posted By on 2014年9月24日

誰にでもできて

全ての問題(いじめ、学力差、発達障碍等)が解決できる方法がある、

と言う話を聞くと、

暗澹たる気持ちになる。

 

おそらく、そういう安直な言葉にのって

猿まねをした結果、

子ども達を潰し

自分もダメになっていく教師が出てくるだろうと思うからだ。

 

教師の仕事は人間の営みである。

何もかも全て解決できる魔法の方法など、あるわけがない。

 

なんども砂をかむような思いを繰り返して

それでも歩み続けるというような仕事なのだ。

 

簡単に解決できる方法など、この世に存在しない。

断言しても良い。

 

もやもやがすっきり

Posted By on 2014年9月23日

各校の研究会の準備で

指導案の検討をしている。

 

帰り道にある学校には、

追手門の帰りに寄ることもある。

 

凄く熱心に考えたことの分かる、若い先生の指導案。

でも、このままでは授業にならない。

先生の思いはよく伝わるのだが、

授業はそこから精査して絞り込んでいくことが必要だ。

 

「説明文って、何を指導するものなんでしょうか?」

素直な質問だ。ずっと指導案を書きながら自問自答を繰り返してきたらしい。

そこがもっとも大切なことなんだと思う。

自分で考えて悩んで、もやもやした状態になっていく。

この過程が教師を成長させる。

今回書いた指導案は一度ボツになるけれども、

決してムダにはならない。

努力にムダはないのだ。

 

だから、僕の説明文の指導の話を聞いて

「もやもやが、すっきりしました。」

という言葉が出たのだと思う。

 

ナイス・タイミング

Posted By on 2014年9月22日

初めて授業を観てもらうというので

ぎんぎんに緊張していた先生。

「チャイムならないのかな」

・・・時計が気になって仕方ないらしい。

 

一人の男の子が、言った。

「なるよ。3秒後。

さん、にい、いち・・」

その瞬間にチャイムがキンコーン。

「おおーっ。」

どよめいた子どもたち。

「すごーい。」

みんなが笑顔で大拍手。

言った本人は大照れ。

 

「さ、はじめましょうか。」

先生もかなり落ち着いた。

ときどきこういうナイスパスをくれる子どもがいる。

それは、明るいクラスにしか生まれない。

 

教師が普通すぎる

Posted By on 2014年9月21日

この前、久しぶりに昔からの仲間たちと会食。

気のおけないメンバーでの語りは楽だ。

 

そのときに、今の先生たちの話になった。

みんな同じことを感じている。

「学校に最も適応してきた人たちが教師になっている。」

「俺たちは、学校に適応していたとは言えなかったもんなあ。」

「今の学校だったら、僕らは不登校になってたかも・・・。」

 

学校って、もっと幅のあるところだよなあ。

ルールでがっちりとしたクラスが支持され

みんなが力を合わせるクラスだけが、いいクラスだともてはやされ、

・・・・・・

もっと曖昧模糊としていても、いいんじゃないかなあ。

清水には、大魚は住まない。

いろんなことをゆったりと考えた夜だった。

現場の疲弊

Posted By on 2014年9月20日

OECDの報告から

日本の教師の多忙が問題になってきている。

でも、現実は、もっと大変だ。

 

ともかく、教壇に立ったら子どもたちが先生の方を向く時代ではなくなったのだから。

 

保護者の中にも、自分の子どもの問題行動を学校のせいにする方が増えた。

 

本来、学校が背負わなくてもよいことまで、全部おい被さってきている。

 

世の中で何かことがあると、すぐに調査して報告書。

全く意味がないことをさせられる。

 

現場が疲弊して、教師として有能な人でも、休職している。

 

なんだかなあ・・・。

 

新しい本の企画

Posted By on 2014年9月19日

僕の本は、

最新が「学級担任の話し方」(明治図書)だけど

10月には、「まるごと1年生」(仮題 黎明書房)が出る。

 

そして、今、来年の春に向けて準備が進んでいるのは

低中高の三冊の編著。

これは、実践家として信頼できる中堅若手ベテランにお願いして

それぞれの方にけっこうな分量を書いていただいた。

原稿を読んでいて、なかなかの本ができるだろうと思っている。

 

そして、堀さんとやりとりしながら本ができそうだ。

これはまだ予定はないのに、原稿が少しずつできていくという

今までにない書き方の本だが、

国語についての考えが具体的にだせるのではないかと期待している。