多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

絵本の力

Posted By on 2015年6月12日

生駒の学校では、
今年も、特別支援教室で絵本を読ませて頂いた。
「20分ぐらいしか無理ですよ。」
と言いつつ、5冊も用意してしまった。

子どもたちとやりとりしたりしながら、
読み聞かせしていく。
絵本の世界に子どもの眼が吸い込まれていく。

4冊が限界かなと思いつつ、
子どもたちのリクエストもあって、5冊読み切った。
30分くらい。

絵本だけで、あの子たちにそれだけ集中させられるのは、凄い。
ぼくの腕ではなくて、絵本の力。

読んだ絵本は、
「ボヨンボヨン大王のお話」
「イエコさん」
「コッケモーモー」
「こいぬのこん」
「ハンタイおばけ」

後で先生方が絵本を聞きに来たので、
一週間貸し出し。
毎日、いろんな学年の教室でも読んで下さるだろう。

授業は生き物

Posted By on 2015年6月11日

昨日は、生駒の小学校で
3年生の授業をさせて頂いた。

授業はライブ。
授業は生き物。
予定と違うことが起こる。
子どもたちが発表しない。笑顔もあり、あたためもうまくいって、
ふつうならどんどん発表の来るところなんだけど・・・。

担任していたら、子どもの書いたものを見ているので
「書いてるから、言ってごらん。」
とプッシュする。
でも、子どもたちの背景が全く分からない投げ込み授業では、
そういうことは避けている。
フォローができないからだ。

子どもが発言できなければ、僕が引っぱる。
目標は、音読を変えることだから、
そこへ時間内に到達させなければならない。

不本意だが、この立場で授業をさせてもらって
子どもたちを目標に到達させないわけにはいかない。

教員採用試験

Posted By on 2015年6月10日

今は、教員採用のピーク時だ。
学生も、
学生ではない者も、
いろんな形で教師になる試験に臨んでいる。

縁あって、アドバイスしている卵たち。
この熱心さと不安を目の前にして
なんとかしてあげたいとは思う。

いつも僕は言っている。
「あなたの今のしんどさは、きっといつか、人生の中で生きてくるよ。」

僕は成功を重ねてきた人間ではない。
大学も二浪して入った。
採用試験も2回落ちている。
だからこそ、今の苦しさを分かってあげられると思う。

成功体験しかない教師から、失敗してもいいんだよって言われても
説得力ないでしょ。
人生の若い頃の瑕疵は、
年齢を重ねると、いつしか武器に変わる。
しんどい状態、不安な状態の人にそう言っても
すぐには受け止められないかも知れない。
それでも、僕は言葉を伝えていく。
いつか、生きてくる言葉になるだろうから。

教育実習の重要性

Posted By on 2015年6月9日

教育実習がさかんになってきた。
現場では、先生方が、実習生にいろいろなことをおしえて下さる。
厳しいことを言うのもいいだろう。
ただ、大切なことは、
教師という仕事のすばらしさを伝えるということ。
子どもたちとの時間をたくさん作ってあげて、
教師の一番元となる
子どもと共に生きることの喜びを実感してもらうこと。

その人が教師に向いているかいないかなど、
決して、分からない。

僕が教育実習に行ったのは、37年前。
名谷小学校の山口校長に教わった言葉は、ずっと生きつづけている。
「君たちが教師になったとき、必ず教室に問題となる子どもがいます。
その子たちは、宝物なんですよ。
その子にどうするかによって、教育が成り立つか成り立たないか、なのです。」

僕はこの言葉をかみしめながら、続けてきた。
実習で先輩教師の語る言葉は、
その若い教師の卵の琴線に届くのかも知れない
ということを自覚して、先生方は実習生に接して欲しい。

コミュニケーションよりも

Posted By on 2015年6月8日

多くの現場で、
国語の授業で、
コミュニケーション能力の育成が中心になっている。

確かに大事なのは間違いない。
僕もそういう研究の指導をしている。

しかし、その前に、国語ではもっと大切なことがある。
日本語をきちんと使える人間に育てるということ。
そういうことが、抜け落ちているような授業や実践を見聞きしても、
僕の心は動かない。
「おれのと、ちがうなあ」
と思うばかりだ。

一時はこういう感覚は年齢のせいだと思っていた。
老害の感覚だと。
しかし、今は、確信を持って言える。
コミュニケーションよりも前に、
きちんと国語を教えるべきだ。

若手の心理

Posted By on 2015年6月7日

『誘爆』 堂場舜一
月曜日から、20日間休み無しなので、
昨日は一日中、読書三昧。
一冊は堂場舜一のルーキー刑事シリーズの第3作。

この話のおもしろいところは、
主人公の一之瀬拓真の心の動きが綴られているところ。
若い人って、こういう心理をもっているよなあ。
刑事も教師も若手の思考には似たところがある。
相手が犯人か子どもかの違いは大きいけれど。

僕は若手を育てる役割を持っている。
最近感じることは、
その若手自身を読み解いて、
その人に必要な方法で考えていくこと。

若手の心理を考えないと、メンターは務まらない。
純粋に楽しんで読書していたはずなのに
やはり僕はワーカーホリックかな。

「国語科授業づくりの深層」

Posted By on 2015年6月6日

堀さんと一緒に作ったこの本は
国語教育をする先生たちに読んでほしい。
技術を身に付ける、
ネタでおもしろく、
点数をとらせる、
全て大切な事だ。
でも、もっと深いところを考えなくて良いのだろうか。
「文学教育とはなんぞや」
「国語の授業で考えておくべきことは何か」
そういうところを議論したい。

一節を引用する。

「そもそも、教材研究とはなんだろうか?文学教材について述べてみよう。
 教科書を使うという前提に立てば、教材研究とは、教科書の教材を授業へと組み立てていくための過程のことだろう。
もちろん、その過程で教科書よりも目標に合う教材があれば、差し替えても構わないのだ。
 まず、文学の授業では、その目標が曖昧だ。「分かる」「できる」という状態が明確でない。
「場面の様子に気を付けて、人物の気持ちを想像しながら読むことができるようにする。」
なんて、どこにもはっきりとした子どもの姿がイメージできない目標である。
「想像しながら読めている」という評価を、いったいどうなれば下せるのだろうか。
 その曖昧な目標に向かって、教材文を読み解いて、授業へと組み立てていくのである。
「教材研究の仕方が分かりません。」
という声の出るのは、当たり前だと言って良い。
 だから、こういう曖昧な目標をより具体的な子どもの姿・活動に置き換えていくことが、教材研究の第一歩となる。

例えば、四年生の教材「ひとつの花」において・・・・・・」

「馬でかければー阿蘇草千里―」

Posted By on 2015年6月6日

みずかみかずよの素敵な詩だ。
「・・・白いたてがみながれ・・・」
「草原から大空へかけあがる
ああ
白い雲」
大すきな詩だった。
「だった」というのは、ある子どものせいで
僕はこの詩をまともに鑑賞できなくなった。

二十年前、ある五年生のクラスで
一人の子どもがこの詩を音読した。

「うま、でかければ・・・」
「おい、でかい馬と違うぞ。」 
大爆笑。

それ以来、
「うまで、かければ」
と読めなくなった。

見逃すしかないか

Posted By on 2015年6月5日

自転車への規制が6月から厳しくなった。
大阪に通うようになってから、
自転車のマナーの悪さに
腹を立てることが増えた。
悪いけど、神戸では、ああいう思いはしたことがない。

それらの迷惑行為が全て罰則の範囲になる。

でも、6月から走っている自転車の態度は、何も変わらない。

かなり年齢のいかれたおばあさんが、
ゆっくりゆっくり自転車をこいでいらっしゃった。
さすべーに日傘をしっかりつけて
歩道をの真ん中を。
完全な違反行為。
これを見かけた警察官はどうするんだろうか。
呼び止めて黄色切符を切り、
日傘をしまいなさいと指導するべきだろうが、
この炎天下に、80歳は越えていそうなお年寄りに
日傘を差すなと指導できるだろうか。

見て見ぬふりしかないだろうなあと思いながら眺めていた。

アナログの授業

Posted By on 2015年6月4日

大学での講義の2回目。
前回の反省から
今回は完全にアナログで行った。
授業をした。

学生相手だと、子供たちのように、時間が想定仕切れない。
何年生なら、このくらいの課題はこれくらいの時間でできるだろうという想定が出来る。
でも、やはり学生の時間は読めない。
従って、授業の中で時間調整しながらになる。

僕は最近、セミナーでは作り込みすぎて、
そういう時間調整をしなくてすむ。

それは講演だからできること。
つまり、相手がその時間内で全員消化できるかを見ながら進めていない。
勝手にしゃべっているということ。

改めて、考え直さないといけないなと思いながら
授業を考えている。

にしても、学生とはぎこちない。
僕が遠慮しながらしているからだろう。
子供相手なら関係作りから入る。
学生には、アカデミックなところから入る。
だからかも、知れない。