多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

小学校の国語教育

Posted By on 2015年11月8日

堀裕嗣と対談やりとりをしていたとき、
突然、文脈とは関係ない話になった。

「いま、ちょっと驚きましたけど、
多賀さん、僕が思っている以上に、
教科教育研究にしっかりしたものを持つべきだという感覚を
強く抱いているんですね。」

それでしばらく、そっちの話になったんだけど、
僕は、小学校の先生達で国語の教科における実践研究の弱さを
ずっと憂いている。
学級経営の話は、初任でもできる。
ある単発の実践を出せば、それは事実なんだから。
でも、国語の実践はそうはいかない。
教材研究の段階で、レベルの違いははっきりと現れる。

僕ていどの人間にまともに言い返せない中堅が
たくさんいる。
それは、僕にはつまらないこと。
自分のレベルは自分が一番よく知っている。

2馬力

Posted By on 2015年11月7日

夫婦で働いていると
給料は2馬力だが、
実質の生活は、2馬力とならない。
1.5馬力くらいが妥当なところだろう。

という話を西宮の学校の先生達としていたら、
「支援で教室に入ってもらうときも、
2馬力にはなかなかなりません。
場合によっては、マイナスにもなります。」
という話になった。

確かに。
特別支援だけではなく、
ありとあらゆる場合に言えることだね。

大切なのは、意思の疎通。
本物のコミュニケーションだということだ。

『学級づくりの深層』発売

Posted By on 2015年11月6日

北海道の中学教師、堀裕嗣さんとの共著の第2弾。
当たりの話はどんどんエスカレートして
おもしろいところへ入っていっている。
僕の書いたところの一部を、以下に紹介する。

◆ 小学校での学年づくりの難しさ
 中学教師は、担任しているクラスに一日のうち一度も授業に入れない日がある。
朝や帰りのミーティングしか子どもたちと顔を合わせることがない日もあるのだ。
さらに、子どもを一つの教科からしか見ることができない。教科担任だからである。
 だから、必然的にチーム【学年】として子どもたちを見ていこうとする。
構造的にチームにならざるを得ないのである。
 小学校の教師はそっくりそのまま中学校の真似をすることはできない。
一日に5時間自分のクラスで授業をして、他のクラスで授業をすることはほとんどない。
クラスの子どもとの密着度が中学校とは違いすぎるのだ。
 チームの考え方を一部取り入れて、部分的な教科担任制を取り入れたり、
ティーム・ティーチングを取り入れたりする学校も増えてきたが、十分に機能しているところは少ない。
 うまくいかない理由は二つ。
 一つは、学級王国体質の強い先生が、どうしても自分のクラスに他の先生が入ることへの抵抗感をぬぐえないからだ。
チームというのは、一人一人が自分の考えで行動できなければならない。
誰かの命令通りに動くのは、チームとは言えない。
お互いに補い合い、助け合っていくというフラットな発想が必要だ。
 もう一つは、子どもに関する話題でコミュニケーションすることが日常的に行いにくいからである。
これは物理的な時間を確保することと同時に、
他の教師に対して自分の持つ子どもの情報を全て開示していくという信頼が必要なのだ。
 この二つがどうも小学校の教師は苦手である。
一日に5時間も授業で入っていたら、自分のクラスだけに思い入れが生じるのは当たり前のことでもある。
学年全体がチームになるということは、本当に難しい。
 僕はずっと3年生以上が一部の教科担任の学校で勤めてきた。
一学年二クラスで、僕の場合は主に国語と社会を二クラス乗り入れという形だった。
この程度の規模ならば、一部教科担任制というのは実施しやすい。
規模がそれ以上になれば時数の関係で厳しくなるし、
単級ならばそもそもチームにはなり得ないだろう。
 その経験から言うと、やはり自分の囲い込み意識をどうクリアするかということが最大の問題だと思う。
自分はこの子を理解しているが他の先生達には分からないだろうという仲間に対する不信感。
それを取り去ることが、とても難しい。、建前は「チームなのだから信頼し合わなければならない」ということなのだが、
そういう基盤をつくることは、言うほど簡単なことではないのだ。

帰国子女学級 そのⅤ

Posted By on 2015年11月5日

一番のポイントは言葉の概念であった。
当たり前のことが分からない。
その言葉の持つ概念が分からない。

なんだったか詳しくは覚えていないが、
白糸の滝のような滝に打たれるというような話をしていたときに、
「そんなことしたら、死んじゃうよ。」
と言われた。
カナダから帰ってきた子どもだった。
なるほど、その子にとっての「滝」は、ナイアガラなのだから。

授業中に、
「もっとていねいに書きなさい。」
と言ったら、
「ていねいって、なあに?」
と聞かれた。
これは困った。あまりにも当たり前の言葉過ぎて
説明のしようがない。
そのとき僕は、黒板にこいのぼりを描いた。
一つはさっさと乱暴に適当に。
もう一つは少していねいに細かく。
「これが、ていねいってことだよ。」
と、説明した。

教室に「ていねい」という言葉の分からない子どもがいるという前提で
僕の教育は始まったということだ。
だから、いつも子どもたちの反応を大切にしてきた。
ちょっとでも疑問に感じたら、それを表現できる学級づくりと
僕との関係づくりを大切にしてきた。

それも、あの子たちに教わったことである。

帰国子女学級 そのⅣ

Posted By on 2015年11月4日

カルチャーショックってなんだろう。
ずっとそのことを考えながら暮らしていた。
インドなどでゆっくりと昼食を食べる習慣を身に付けてきた子どもが
日本の学校にもどったら、
「さっさと食べなさい」
と、叱られる。
その子にとって当たり前のことが否定されるということは
人生を否定されるということだ。

「イェーイ」
と言って、授業中に立ちあがるアメリカ帰りの子ども。
その子にとっては、それが当たり前であって
黙って座っている日本の子どもたちの方が異常なのに
先生からは叱られる。
なんとも不条理な話だ。
大人なら理屈で考えて修正していけるが
子どもはそうはいかない。
ただ自分を否定されて傷ついていく。

公立学校で帰国子女を受け入れた時、
そういうことに配慮していたら
この子たちは傷つかなくてすんだのに・・・
と、思うことがしばしあった。

でも、その僕がときどき子どもを傷つけてしまう。
新任には無理なことだったのだろう。

帰国子女学級 そのⅢ

Posted By on 2015年11月3日

あるとき、算数の授業中に一人の子どもが泣き出した。
僕は、その子を部屋に呼んで
「なんで泣くの?分からないからって泣いてたらダメだよ。」
と諭した。そうすると、その子は
「泣いたのは、先生が笑ったから。」
と言った。
胸を刺されたような気がした。
帰国子女は、帰ってきてから嫌な思いをたくさんしている。
友だちに言葉がおかしいと笑われ、
「こんなこともできないのか」
と言われ・・・。
その子の失敗を僕は笑った。

取り返しのつかないことだった。

なのに、
僕は、同じことを繰り返してしまった。
子ども達とやわらかいボールで野球をしていたとき、
ある男の子がバッターボックスに立った。
カタールから帰ってきた子どもは、野球なんてできない。
いろいろともっちゃりとしたことをして、
みんなに文句を言われたり、笑われたりして、泣いてしまった。
「遊んでいる時にいやなことがあっても、泣いたらダメ」
と、僕が言ったとき、彼はこう言った。
「先生が、笑ったから。」

頭をぶん殴られたような気がした。
ほんと、オレは教師に向いていないなあ、
おんなじこと繰り返して子どもを傷つけて、
資格なんてないよなあ・・・
家で落ち込んだ。

そのときのことが頭を離れたことはない。
だから、僕は子どもにかける言葉に気を付けるように努力してきた。
できたと確信したこともないが
いろいろな本を読んで子どもの心を研究して
言葉のかけ方をさぐってきた。
それでも僕は、そのときの自分のしたことを
乗り越えることはできない。
今でも、鮮明にあのときの二人の姿が頭に浮かぶ。

帰国子女 そのⅡ

Posted By on 2015年11月2日

たった二人の子ども達とスタートして、教科書の指導書がそのまま使えない。
どんな授業にしたら良いのか、
自分で工夫するしかなかった。
そこで、当時まだ世の中では広まっていなかった
ワークシートを使っての学習を中心にした。

算数は、プリント学習で、
棚に段階別のプリントを用意して、
子どもが自分のレベルに応じて学習していく形をした。
全て手作り手書きのプリントだった。
こういうと、すごい先生に聞こえるかも知れないが、
全くのダメダメだったことは、付け加えておきたい。
今の僕の力があれば、
子ども達に数倍の力をつけてあげられたと確信している。
あの子たちへの借金を、僕はその後に出逢った子どもたちに返していったといえよう。

最初の遠足は王子動物園。
先生と三人だけ。
僕が写真を撮るから、小さな記念撮影。
クラスという集団の力など、全く存在しない中で、
僕は一人一人と付き合っていった。

帰国したら随時入学というシステムで、
ある日突然クラスメイトが増える。
みんな帰ってくる国が違う。
フランス、カタール、東欧、アメリカ、香港・・・
自分なりに子どもたちと一生懸命につきあったけど、
当時の僕には子どもを理解するための技術が決定的に不足していた。
だから、子どもたちにとって、良い教師ではなかった。

帰国子女学級

Posted By on 2015年11月1日

教え子の訃報を聞いてから
ずっとそのときのことを思い浮かべている。
少し書いていこうと思う、35年前のことを。
それが「偲ぶ」ということだと思う。

新卒で担任した四年生が帰国子女学級。
当時の神大附属では、帰国して一年未満の四年生以上というのが
入学の条件であった。

三年時に帰国してきて、日本の学校になじめなかったら
四月から転入ということになる。
馴染めないと言うのは簡単だが
カルチャーショックというのは、
子どもにとっては天地がひっくり返るほどの大事だった。
例えば、アメリカで現地校へ通っていた子どもがいたとする。
アメリカでは、人と違うことをすると褒められ
人と同じことをすると、認められない。
そんな教育を受けてきた子どもが日本の教室に入る。
日本では、
「周りを見なさい」
「人と違うことをしてはいけません。」
「みんな、同じことをしているでしょ。」
と、注意される。
これは価値観を転換しろということだ。
子どもにはものすごい苦痛となり。
自分を否定されたような気持ちになる。

教科でもカリキュラムが違うから、とまどう。
欧米では、当時(今はどうか知らない)、日本の算数よりも二学年くらい遅れていた。
実際はと、思考力とか探究力といった、日本とは別のことを指導していたのであるが。
欧米で良い成績をとっていた子どもが日本に帰ってきたら、
劣等生になってしまう。
掛け算を知らない四年生が帰ってくるのである、欧米から。

そういう子どもたちをあずかるところへ
僕は初任として入ったのである。

さらに授業の話

Posted By on 2015年10月31日

水曜日は、尼崎で国語の研究授業。
「ごんぎつね」の読みとり。
久しぶりだ、完全な読みとり学習の研究授業は。

学習規律や学習週間のきっちりとしていたクラスだった。
先生は穏やかで、こういう基本的なことができているクラスはいいなあ。
授業そのものの質へ向かうことができるから。

でも、国語の授業はあまくない。
読みとりは、先生の説明やまとめによって成り立たせてはいけない。
常に子どもたちが文章表現へ返り、
言葉の吟味をしながら考えていくものだ。

しかし、子どもたちは「願望読み」をしてしまう。
「こうあってほしい」という願いの方向で読みを曲げてしまうということだ。
そこを文章に立ち返らせて
真の読解ができるように
教師は指導していかねばならない。

授業の話

Posted By on 2015年10月30日

火曜日は、東大阪の6年生の研究授業。
話し合いの学習のためのてだてを打って
子どもたちがいい話し合いをしていた。

傾聴3動作を取り入れて、
これまでに子どもたちが興味を抱くテーマで
話し合いを重ねてきたから
そのことがはっきりと現れていた。
やはり、モデルを示してトレーニングすることによって
スキルも意識も向上するということだ。

問題は、それが国語のめあてに到達できるかどうかということにある。
つまり、話し合いがいいムードでできても、
国語のめあてにとどかなければ、
国語の授業としてはどうなのかということだ。

もう一点、話し合いまではよくても
全体でのシェアに関してはとても難しいということ。
このシェアの在り方を考えないといけないだろうね、
これからの授業では。

ただし、話し合い学習が定着したクラスでは
クラスのムードが融和的になる。
6年生という困難な時期を
クラスの力で乗りきることにつながるだろう。