多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

親力 ④

Posted By on 2022年2月9日

■ 厳格さということ
 厳格さというと、昔の「頑固おやじ」を思い浮かべるかもしれません。「巨人の星」というマンガがありましたが、そこに登場する星一徹という父親は、本物の頑固おやじで、ちゃぶ台をひっくり返すという昔はホントによくあった姿を描いていました。
 今は、DⅤでもない限り、そういう親父は減りましたね。逆にお父さんが優しくなって、「隣のトトロ」に出てくるお父さんのような、優しい父親が増えました。
 優しい父親はいいんですけど、優しすぎる父親が問題なのです。
 優しすぎる父親は、子どもにとって癒しにはなるけれども、厳格な厳しさを感じる存在ではありません。
 暴力的であったり、威圧的であったりする必要は全くありませんが、「厳しさ」というものは、やはり教育には必要なものだと思うのです。
 子どもは悪いことをします。問題行動を起こすものなのです。
「うちの子は全く問題なく育ってきました。」
と自慢げに話すお母さんの言葉を聞いていると、
「えっ? それって逆に心配なんですけど・・・。」
と言いたくなってしまいます。
 子どもは問題行動を起こして、そこを厳しく指摘されて、それを受けて考えて、育っていくものなのです。
 問題行動はきちんと指摘して考えさせなければなりません。ダメなものはダメだと言うこと。それが「厳しさ」なのです。

 すべてを受け入れて、
「いいんだよ。」
と認めてしまうって、教育放棄になりませんか?
 話を聞いてあげることはとても大切な事ではありますが、全てを認めてはいけません。子どもは未熟だし、社会に対するメタ認知が圧倒的に弱いのですからね。
 そして、ダメだと言ったら、絶対にダメという強い意志を示すことが大切です。その代わり、ダメだという自分自身に責任を負わないといけませんよ。

 別に怖い顔をして「ダメだ」という必要はありません。笑顔でもいいんですよ。にこにこ笑っていても、うちの親は絶対に譲らないよなあと子どもたちに思わせることはできます。

親力 ③

Posted By on 2022年2月8日

 娘が中学二年生の時です。僕の部屋にやってきて、パソコンでいろいろと仕事をしている僕の後ろの方で、本棚の本を取り出してぱらぱらめくったり、ぼんやりしていたりしていました。
「知子、何かあったのか?」
と聞きました。
 すると、娘は、今の自分の悩みをとつとつと語り始めたのです。
「私の学校で、うちのクラスじゃないんだけれど、いじめにあっていると思える子どもがいるの。私はなんとかしてあげたいと思うけれども、クラスは違うし、担任の先生は信用できないし、自分には勇気がないんだなあと思ったら、落ち込んでしまう。」
と言うのです。そこで僕は
「なあ、そのことに対して責任のある大人は何をしているんだろうね。まず、そのいじめられている子どものお父さんとお母さんは、何もしてないんでしょ。それから、担任の先生は何をしているんだ。少なくとも、何か声掛けをするべきじゃないのかな?そして、いじめている子どもの親は何をしているんだろう。知らん顔しているのかな?
 子どもに対して責任のある大人たちが何もしていないのに、離れたところにいるお前にできることはほとんどないんだよ。
 でも、お前がそこで悩んでいることは無駄なことではない。その思いをしっかりと持って大人になりなさい。そして、大人になって、自分の目の届く範囲で起こったことについては、責任持って取り組んでいけばいいんだよ。」
と、話しました。
 娘はしばらく僕の背中に背中をくっつけて考えていましたが、
「分かった。」
と言って自分の部屋に戻りました。
 ふだんから、だらしない恰好を見せつけていたら、このような相談事は掛けてこなかったろうなあと思うのです。

親力 ②

Posted By on 2022年2月7日

■ 親に権威は必要
 親が権威を持っていないと、子どもたちに舐められます。馬鹿にされてしまいます。子どもからの反発はあっていいのです。しかし、馬鹿にされてはいけません。
 怒鳴りつけたり叩いたりといったものは、権威にはつながりません。優しく穏やかでも「権威」というものは存在できるのです。
 それは、親が次のようなことを意識することなのです。
ア けじめをつける。
 親がけじめをつけることが重要です。子どもにけじめをつけさせる前に、親自身がけじめをつけることができているかどうかを考えましょう。子どもたちは親のすることをじいっと見ています。自分にけじめをつけることのできない親から
「けじめをつけなさい。」
と言われても、聞けません。説得力がありません。
 イ だらしない姿を見せない
  僕は、おふろに入る時に、娘の前で脱衣することはしませんでした。(小学校に入ってからですよ)
パンツ一枚でリビングをうろつくようなことも一切したことがありません。家庭というのはくつろげる場所ですから、ある程度までは油断してだらだらとリラックスした姿を見せるのは仕方ないと思います。でも、だらだらしているのと、だらしない姿を見せるというのとでは、違いますよね。
 子どもは成長するにつれて、親のだらしなさが気になります。だらしない親に何か深刻な相談をしようと思いますか?
 ウ 働く姿を見せる
  自分の職場に子どもを連れて行ったことはありますか?子どもたちは親の働く姿を見たことはないのかも知れません。そうすると、そこに尊敬や感謝なんて生まれませんよね。
 僕は教師という仕事だったから、家で仕事関係の本(教育書)を読んだり、プリントを作ったり教材研究したりしていました。娘はそういう姿を見ていただろうと思います。ですから、つまらないミスをおかしたり、わがまま言ったりするのをなじることはあっても、僕の仕事への姿勢は認めてくれていただろうと思うのです。
 もしもできることなら、職場に子どもを連れて行って、親の働く姿を見せましょう。パートでもいいのです。一心に働く姿を見て、何も感じない人間などいませんから。

 こうした姿を意識して見せることで、親の権威は保たれるのではないかなあと思うのです。。

親力

Posted By on 2022年2月6日

親力というものについて、根本的に考えてみました。

① 権威と厳格さ
昔(戦前と戦後40年ぐらいまで)は親の権威というものは、絶対的であったと思われるのです。
家父長制度が浸透して、子どもは親にはさからえなかったのです。
もちろん、その時代にも親に逆らう子どもはいましたが、圧倒的にマイナーでした。
懲戒どころか、折檻まで認められていました。
子どもを殴ることになんの抵抗もなく、それのできない親は、
「甘い!」
と、糾弾されるほどでした。

 僕が教師になった1980年ごろは、子どもは先生に叱られたことを親にはほとんど言わないようにしていました。
それは、言ったら、
「あなたはどんな悪いことをしたのか」
と、よけいに叱られたからです。
教師の権威も、親の権威に支えられていたのです。

今は、親の権威というものは、存在していません。
子どもに手を上げると、DVだとされます。
言葉の暴力も否定されています。
何よりも親自身が弱くなって、子どもに媚びる親も出てきました。
大事に大事に甘やかして、子どもに引っ張られてしまっている親もいます。

厳格さというものが家庭には見られなくなってきて、
優しさにあふれた家庭が増えてきています。
子どもの話をよく聞いて、否定しなくなってきました。
それはそれで良いことだと思うのですが、
どうもそこに、親としての厳しさがないように思えるのです。

では、今の時代において、「威厳さと厳しさ」とを、どう考えれば良いのでしょうか?

私と震災 その③

Posted By on 2022年1月18日

神戸電鉄ー北神急行が新神戸まで通じた4日目。
ようやく電車で出発。
新神戸駅から家内と二人、甲南小学校へ向かう。
新神戸付近はそうでもなかったが、
六甲道へ向かって下っていくと、焼け焦げと倒壊が続く。
焦げる臭いとサイレンの音に
しだいに気持ちがふさがっていった。
学生時代を過ごした六甲の街並みも駅も、めちゃくちゃだった。
悔しくて泣きたくなるような思い。
大好きな街は、もう亡くなってしまった。
ぽつぽつと歩いた。
住吉に住む友人のマンションがつぶれて
本山南中へ避難しているというので、物資を背負って行く。
途中で道を聞く時にも感じたのだが
どの人もみな親切でていねいに探し方を教えてくれる。
お互いに助け合おうという気持ちが
この悲惨な街のなかに満ちている。
でも、避難所は子どもの暮らすような所ではない。
友人に
「子どもをこんな所に置いていたらいかん。
あずかるから、遠慮せずにこさせろ。」
とだけ言い、家内を残して甲南小へー。
(このとき預かった子どもが24年後、帯広で教師をしていて、僕に会いに来てくれた。)
くさい臭いと雑然とした空気の甲南小学校。
屋根瓦が割れ、後者のつなぎ目には亀裂が入っていた。
しかし、昨年建て替えたばかりだったので、
周囲の学校のように倒壊はしていなかった。
ボランティアで、遠く大阪から歩いてやってきている若者たちと
近くのボランティアとで、けっこう仕事をしてくれていた。
(被災者は1500人)
ここにいると、しんどいけれども、
何かすることがたくさんあるので、心は落ち着く。
ほんのちょっとした心遣いが随所で見られて
「大変だなあ」という思いよりも、
「人間って、いいもんだなあ」と、思わされるから不思議だ。
夜中によく人が訪ねてくる。
三重から自転車で来られたという方も、肉親を捜しておられた。

私と震災 その二

Posted By on 2022年1月14日

途切れ途切れにつながる電話。
いつ誰とつながるか分からない。
たまたまつながったのが
芦屋では山本さん。西宮では村上さん。
同じ地区なら電話がつながりやすいようなので、お願いする。
神戸地区でも伊藤さん、黒田さとしさんとつながってゆく。
「あっ、先生。うちは大丈夫です。下の方で火の手が上がってます。六年の小原さんのお宅が危険だということで、うちに避難して来られています。」
山崎由美子さんも無事。二組の男子は一回目は全く連絡がとれず、女子でようやく永井さん。
「先生、怖かったあ。もう家はだめで実家の方へ逃げてきています。たまたま荷物をとりに帰ってきたんです。学校にもよってみます。」
山崎たつやくんちから電話が来て
「やあ先生。えらいことやね。うちは自宅にいて大丈夫です。久保直樹くんのお母様も、多賀先生に全員無事だと伝えてくださいとのことです。」
二日目の夜中にS先生から連絡。(夜中だと比較的つながりやすかった。)
「今日は大変でした。もう二日間も寝ていません。」
(LPGガス爆発のおそれのため、甲南小学校には数千人の人々がなだれこんできた。)
「食べ物がありませんからね。パンが二人に一個ですよ。水が出ないのにトイレを使うから、うんこと紙が詰まって、凄い臭いです。もうどうしようもありません。全部の部屋に人が勝手にどんどん入り込んでいきました。三千人。パンを配る時は、けんかです。」
「そっちに安否情報入ってる?」
「入ってますよ。二年生の山本。男の子が生き埋めになってたすからなかったそうです。萬田のばあちゃんも゜アウト。」
「やっぱりそうか。なんとなあ。森實のおばあちゃんも亡くなられたみたいや。」
三日目。
ようやく安否不明も数えられるほどになっていた。道満さんが
「工場が焼けました。家は無事で、二家族、電気もガスも水もないところで、寄り添ってしのいでいます。」
生きている。家が残っている。
そんな当たり前のことがましな方だと思えてしまうぐらいに、死者の数が三十分に百人ずつの割合で増えていく。

27年目

Posted By on 2022年1月13日

神戸では、阪神大震災の特集が組まれて
連日、少しずつだが
語られている。
全国的には、もう昔の話になってしまっている。
震災の時の自分の日記を紐解こうと思う。
「私と震災」
  ~被災地のかたはらにあって~
 ぐらぐらっとした感覚と、体が浮き上がるような気分で
目が覚めた。
一瞬、何が起こっているのかよく分からなかったが、
両側の本棚から本が雨のように降ってくるので、
飛び起きて、部屋の中ほどに立った。
というよりも、立とうとしたが、激しい揺れに身をかがめ、
机に必死でしがみついていたのである。
ー地震?!
 そのとき、ようやく事態が飲み込めた。
実際には十五秒ぐらいの出来事だったのだが、
何十分という長い時間のように思えた。
 真っ暗な中、がたがたという音。
娘の部屋に向かおうとしても、
もたれて中腰でいるのが精一杯。
 ようやく少し収まったので、隣の娘の部屋へ行った。
ー電灯がつかない。停電だ。
「知子、大丈夫か。」
「うん。本箱が倒れてきたけど。」
「じっとしてろよ。動くな。何か割れてるかもしれんからな。」
確かに、何か割れてきらりと光る。
 六年生の娘を部屋から連れ出し、下の部屋に声をかける。
「トシコ、大丈夫か。」
「だいじょうぶ。こわかったあ。」
 降りてみると、台所の食器もたくさん落ちて割れているようだ。
スリッパをはき、ヘッドランプを持ち出して、ラジカセに電池を詰めてNHKをつける。
「じいっとしていよう。もうすぐ夜が明けて明るくなる。それから片付けよう。」
「上の本棚の本も全部落ちたし、花瓶が倒れて水浸しだし、こりゃあ、今日は学校を休ませてもらおう。」
この時点では、私はまだこの地震が神戸の街をどんな目に合わせたのか、十分に認識できないでいた。

 しばらくして、電灯がつき、テレビもOKとなった。
地震の凄さを映像が語り始めたとき、電話が鳴った。
ロスアンゼルスにいる友人からだった。
「よかった。だいじょうぶか。他の友達にも連絡とって、生死を確かめているんや。」
「そんなに早くもアメリカで報道されてるのか?」
「高架が倒れてるえいぞうなんかが映っている。三宮もめちゃくちゃらしいな。」
「えっ?高架って、元町の高架下商店街か。あの辺は古いからなあ。」
「ちがう、ちがう。阪神高速の高架や。」
「えっ・・・」
 この時点でも、私は状況を正しくはつかんでいなかったのである。
ー甲南小学校は、どうなんだろう。
 テレビが次々と不思議な映像を送ってくる。
倒れるはずのないものが倒れている。
橋がない。
家々がぺしゃんこになって・・・。
 学校にあわてて連絡をとろうとしたが、
電話が全く通じない。五年生の子どもたちは?友人は?長田の親類は?・・・・・・・
何度もプッシュホンを押しては切り、押しては切り・・・。
「ただいま電話回線が混乱して、かかりにくくなっております。緊急以外の電話は、どうぞこれらの地域におかけにならないように・・・。」
そんなことを言われても、人々の温ぴが気にかかる。
子どもたちは?友人たちは?知人は?
みんな同じ気持ちで電話をかけ続けたに違いない。
日本中の人々がー。

劣等児に対して

Posted By on 2022年1月9日

母の日記の続きである。
特に心に引っかかる文章があったので
ここに書き記したい。
「私の組には約一割の特別劣等児が居た。
(今は「劣等児」などという言葉は使われないが、70年も前の文章なので、
お許し頂きたい。)
何とかして劣等児を無くしたい。
劣等児をして学校を彼等の楽園としてやりたい。
常に私は、劣等児と話す機会を多くするように心をくだいた。
私の様な短気なものには大きな苦行であった。
幾日経ってもその効果の現れぬ時は初めの意気も消沈してしまふ様であった。
ある日私が「誰か来て下さい」と呼んだ時、
4月以来、未だ一言も物を云った事のない劣等児がとびだしてきて
「先生、何か御用ですか」と云った。
私はあまりの嬉しさに思わずその子をだきよせて泣いてしまう事があった。
その翌日から「お早う」の挨拶ができる様になった。私の一カ年を通じて
この時ほど深い感激を覚えた事はない。・・・・」
僕は、ずっと母を避けてきたが
結局、同じ道を引き継いできたのかも知れない。

 臨教生 「教育生活の反省」

Posted By on 2021年12月25日

母が昭和20年に助教として教壇に立ったときのノートが出てきた。

表書きは、筆。
母は達筆である。
父も職業柄、達筆であったのに、
なんで僕は字が上手くないんだろう、
などと思いながら読んでいた。

「Ⅰ、発足に当りて感じた事
希望の門、理想の門、生命を賭した奉公の道、
それが私の選んだ、
同時に私の身を思って下さる恩師等の指示された教場の生活であった。
日々、悔いなき授業に終始しているか、今日一日心に恥ずるなからしか、
夕べ更けゆく野路に佇みて、今日の営為を省みれば、
ああ、あまりにも貧しき自分ではあった。」

なんだか、不思議な気持ちがする。

反発ばかりして、僕にとって反面教師であった母のこの言葉は
僕自身が、ずっと心に抱いてきたことと、全く同じなのである。

遺伝子からは逃れられないのだろうか。

サンタクロース

Posted By on 2021年12月18日

僕のところにサンタクロースが来たのは
3年生が最後だった。
テレビロボット。
胴体にテレビがついていて、
手動でくるくる画像が回る。
4年生からのものは
覚えていない。
もちろん、サンタの正体は
今は分かっている。
でも、3年生までのクリスマスプレゼントは
今でも、サンタさんからだと
なんとなく思っている。
目に見えない不思議な存在がサンタさん。
不思議を信じる心は
目には見えないが大切なものを
信じる心に通じる。

子どもが
「A君が、サンタはいないって言うんだよ」
と言って来たら
「サンタさんは、信じてる子どものところにしか来ないんだよ。」
と言うことにしていた。