Posted By taga on 2022年1月14日
途切れ途切れにつながる電話。
いつ誰とつながるか分からない。
たまたまつながったのが
芦屋では山本さん。西宮では村上さん。
同じ地区なら電話がつながりやすいようなので、お願いする。
神戸地区でも伊藤さん、黒田さとしさんとつながってゆく。
「あっ、先生。うちは大丈夫です。下の方で火の手が上がってます。六年の小原さんのお宅が危険だということで、うちに避難して来られています。」
山崎由美子さんも無事。二組の男子は一回目は全く連絡がとれず、女子でようやく永井さん。
「先生、怖かったあ。もう家はだめで実家の方へ逃げてきています。たまたま荷物をとりに帰ってきたんです。学校にもよってみます。」
山崎たつやくんちから電話が来て
「やあ先生。えらいことやね。うちは自宅にいて大丈夫です。久保直樹くんのお母様も、多賀先生に全員無事だと伝えてくださいとのことです。」
二日目の夜中にS先生から連絡。(夜中だと比較的つながりやすかった。)
「今日は大変でした。もう二日間も寝ていません。」
(LPGガス爆発のおそれのため、甲南小学校には数千人の人々がなだれこんできた。)
「食べ物がありませんからね。パンが二人に一個ですよ。水が出ないのにトイレを使うから、うんこと紙が詰まって、凄い臭いです。もうどうしようもありません。全部の部屋に人が勝手にどんどん入り込んでいきました。三千人。パンを配る時は、けんかです。」
「そっちに安否情報入ってる?」
「入ってますよ。二年生の山本。男の子が生き埋めになってたすからなかったそうです。萬田のばあちゃんも゜アウト。」
「やっぱりそうか。なんとなあ。森實のおばあちゃんも亡くなられたみたいや。」
三日目。
ようやく安否不明も数えられるほどになっていた。道満さんが
「工場が焼けました。家は無事で、二家族、電気もガスも水もないところで、寄り添ってしのいでいます。」
生きている。家が残っている。
そんな当たり前のことがましな方だと思えてしまうぐらいに、死者の数が三十分に百人ずつの割合で増えていく。
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Posted By taga on 2022年1月13日
神戸では、阪神大震災の特集が組まれて
連日、少しずつだが
語られている。
全国的には、もう昔の話になってしまっている。
震災の時の自分の日記を紐解こうと思う。
「私と震災」
~被災地のかたはらにあって~
ぐらぐらっとした感覚と、体が浮き上がるような気分で
目が覚めた。
一瞬、何が起こっているのかよく分からなかったが、
両側の本棚から本が雨のように降ってくるので、
飛び起きて、部屋の中ほどに立った。
というよりも、立とうとしたが、激しい揺れに身をかがめ、
机に必死でしがみついていたのである。
ー地震?!
そのとき、ようやく事態が飲み込めた。
実際には十五秒ぐらいの出来事だったのだが、
何十分という長い時間のように思えた。
真っ暗な中、がたがたという音。
娘の部屋に向かおうとしても、
もたれて中腰でいるのが精一杯。
ようやく少し収まったので、隣の娘の部屋へ行った。
ー電灯がつかない。停電だ。
「知子、大丈夫か。」
「うん。本箱が倒れてきたけど。」
「じっとしてろよ。動くな。何か割れてるかもしれんからな。」
確かに、何か割れてきらりと光る。
六年生の娘を部屋から連れ出し、下の部屋に声をかける。
「トシコ、大丈夫か。」
「だいじょうぶ。こわかったあ。」
降りてみると、台所の食器もたくさん落ちて割れているようだ。
スリッパをはき、ヘッドランプを持ち出して、ラジカセに電池を詰めてNHKをつける。
「じいっとしていよう。もうすぐ夜が明けて明るくなる。それから片付けよう。」
「上の本棚の本も全部落ちたし、花瓶が倒れて水浸しだし、こりゃあ、今日は学校を休ませてもらおう。」
この時点では、私はまだこの地震が神戸の街をどんな目に合わせたのか、十分に認識できないでいた。
しばらくして、電灯がつき、テレビもOKとなった。
地震の凄さを映像が語り始めたとき、電話が鳴った。
ロスアンゼルスにいる友人からだった。
「よかった。だいじょうぶか。他の友達にも連絡とって、生死を確かめているんや。」
「そんなに早くもアメリカで報道されてるのか?」
「高架が倒れてるえいぞうなんかが映っている。三宮もめちゃくちゃらしいな。」
「えっ?高架って、元町の高架下商店街か。あの辺は古いからなあ。」
「ちがう、ちがう。阪神高速の高架や。」
「えっ・・・」
この時点でも、私は状況を正しくはつかんでいなかったのである。
ー甲南小学校は、どうなんだろう。
テレビが次々と不思議な映像を送ってくる。
倒れるはずのないものが倒れている。
橋がない。
家々がぺしゃんこになって・・・。
学校にあわてて連絡をとろうとしたが、
電話が全く通じない。五年生の子どもたちは?友人は?長田の親類は?・・・・・・・
何度もプッシュホンを押しては切り、押しては切り・・・。
「ただいま電話回線が混乱して、かかりにくくなっております。緊急以外の電話は、どうぞこれらの地域におかけにならないように・・・。」
そんなことを言われても、人々の温ぴが気にかかる。
子どもたちは?友人たちは?知人は?
みんな同じ気持ちで電話をかけ続けたに違いない。
日本中の人々がー。
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Posted By taga on 2022年1月9日
母の日記の続きである。
特に心に引っかかる文章があったので
ここに書き記したい。
「私の組には約一割の特別劣等児が居た。
(今は「劣等児」などという言葉は使われないが、70年も前の文章なので、
お許し頂きたい。)
何とかして劣等児を無くしたい。
劣等児をして学校を彼等の楽園としてやりたい。
常に私は、劣等児と話す機会を多くするように心をくだいた。
私の様な短気なものには大きな苦行であった。
幾日経ってもその効果の現れぬ時は初めの意気も消沈してしまふ様であった。
ある日私が「誰か来て下さい」と呼んだ時、
4月以来、未だ一言も物を云った事のない劣等児がとびだしてきて
「先生、何か御用ですか」と云った。
私はあまりの嬉しさに思わずその子をだきよせて泣いてしまう事があった。
その翌日から「お早う」の挨拶ができる様になった。私の一カ年を通じて
この時ほど深い感激を覚えた事はない。・・・・」
僕は、ずっと母を避けてきたが
結局、同じ道を引き継いできたのかも知れない。
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Posted By taga on 2021年12月25日
母が昭和20年に助教として教壇に立ったときのノートが出てきた。
表書きは、筆。
母は達筆である。
父も職業柄、達筆であったのに、
なんで僕は字が上手くないんだろう、
などと思いながら読んでいた。
「Ⅰ、発足に当りて感じた事
希望の門、理想の門、生命を賭した奉公の道、
それが私の選んだ、
同時に私の身を思って下さる恩師等の指示された教場の生活であった。
日々、悔いなき授業に終始しているか、今日一日心に恥ずるなからしか、
夕べ更けゆく野路に佇みて、今日の営為を省みれば、
ああ、あまりにも貧しき自分ではあった。」
なんだか、不思議な気持ちがする。
反発ばかりして、僕にとって反面教師であった母のこの言葉は
僕自身が、ずっと心に抱いてきたことと、全く同じなのである。
遺伝子からは逃れられないのだろうか。
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Posted By taga on 2021年12月18日
僕のところにサンタクロースが来たのは
3年生が最後だった。
テレビロボット。
胴体にテレビがついていて、
手動でくるくる画像が回る。
4年生からのものは
覚えていない。
もちろん、サンタの正体は
今は分かっている。
でも、3年生までのクリスマスプレゼントは
今でも、サンタさんからだと
なんとなく思っている。
目に見えない不思議な存在がサンタさん。
不思議を信じる心は
目には見えないが大切なものを
信じる心に通じる。
子どもが
「A君が、サンタはいないって言うんだよ」
と言って来たら
「サンタさんは、信じてる子どものところにしか来ないんだよ。」
と言うことにしていた。
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Posted By taga on 2021年12月17日
僕は年間、五十本以上の指導案を読む。
昔は手書きだから、
ぱっと見ただけでその先生の力量が分かった。
今は、活字になっているので
体裁は整っている。
じっくりと読まないと、その先生の力量、
意図するところ、展開の不自然さなどが分からない。
いくつかの学校では、僕がファシリテーターになって
授業の事後研をする。
まず最初にすることは、
指導案をじっくり読んで自分の思いを書いてもらうことだ。
ふだん忙しい先生方は、
前日に配られた指導案をじっくり読むことが少ない。
公開授業の直前や、授業中に、
参観しながら読むことが多い。
指導案に対する自分の考えをしっかりとまとめることはない。
だから、指導案を読んで感想をまとめて話し合いをする。
それから、本時の授業について考えるようにする。
ところが、水曜日の先生の指導案が
良く出来すぎていて、突っ込みどころがなかった。
これを読んだ先生方は、感心はするけど、
「なるほど」でおわってしまうなと思った。
そこで、今回は指導案の読み込みは止めて、
「優れた指導案だから、後で読んで勉強してください。」
と言った。
それで先生方に最初たずねたのは、
「本時の授業で課題としてあげられたことを
自分たちも考えてみましょう。」
ということだ。
「資料における筆者の工夫の一番優れていると思うものを一つ選びその工夫についてまとめる」
を各自でやっていただいて、グループで出し合った。
「難しい」という声がたくさん上がる。
そう。授業者の問いかけがいかにレベルの高いものであるかを
実感していただきたかったのだ。
授業は、やはりそこでつまずいていた。
授業者は見事に授業をコントロールしていた。
43人も五年生がいたら、
グループ学習するスペースがない。
でも、一斉の形態で子どもたちがほぼ全員、授業に向かっていた。
高い力量の先生のもとで、必死に考える子どもたち。
つまずきはもちろん解消されなかったけど、
いい授業を観たというのが実感だ。
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Posted By taga on 2021年12月9日
今日は、西宮で人権の授業研。
僕は専門ではないと、授業だけの話にさせていただいた。
人権の話は、市教委から来ていただいた。
なんだけど、
僕の出身地は神戸市の長田。
同和地区と朝鮮人部落が併存する町。
関東などの地域の方には想像もできない体験がある。
母が小学生の時、
当時は赤貧で、残飯を洗って食べていたほど。
祖母が働いてやっと貯めたお金で近眼だった母に
眼鏡を買ってくれた。
それをかけて歩いていたら、
「ちびのくせに生意気だ。」
と部落の中学生くらいの連中が
眼鏡を奪って足で踏みつけて壊した。
かえって祖母に言うと、
「あの人たちが悪いんやないんやで。恨んだらいかんよ。」
と言ったそうだが、
母は、最期まで差別主義者だった。
家内の父親が姫路で校長をしていた時、
教頭がよけいな言葉を吐いたために
部落の糾弾集会に行かされた。
連日、大勢に囲まれて大声で怒鳴られる。
何日かの後、脳梗塞で倒れて半身不随になり
残り僅かの校長生活を全うできなかった。
そういうマイナスの経験があっても、
僕は差別を憎む。
人種差別も障碍児差別も女性差別も。
差別という偏見が、多くのマイナスを生む。
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Posted By taga on 2021年12月1日
今、教育現場には若い先生方がどんどん増えています。
しかし、若手を育てるOJTが現場では成立しにくいのです。
教師というのは、新卒でもいきなり全てを任されるという仕事です。
それなのに、学級指導に関しては何も分からないままに始業式を迎えてしまう新卒者がほとんどです。
黄金の一か月と呼ばれるように、四月のスタートの出遅れは、一年間を左右してしまいます。
今の現場で教師としてやっていくには、なんらかの「武器」となるものが必要です。
三十年前とは違い、先生だからといって保護者も子どもも黙ってついてきてはくれません。
その武器も持たずに夢と希望だけ抱いて教壇に向かうのですから、
まじめで熱心なハートがあっても途中で挫折してしまう人が後を絶ちません。
初任者の教師教育の問題の一つは、教師教育者として何をどう教えるのかということが、
指導する各教師個人に全て任せられていることにあります。
それでは、安定した教師教育ができるはずがありません。
基本的な教師教育の在り方というものが、少なくとも各教育委員会単位で確立されるべきなのです。
残念ながら、初任者指導者研修などというものはあまりありません。
(高槻市と奈良市では初任者指導者講習に活かせていただきましたが・・・。)
大都市を中心に初任から大量の休職―退職者が出るという事実は、
そういう初任者指導の基本的なマニュアルがないことが原因の一つではないでしょうか。
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Posted By taga on 2021年11月29日
僕は追手門学院小学校で、八年間、初任者指導に携わってきました。
五年目までの先生方を預かって、授業を観て指導をするという形でした。
五年間指導ができるので、じっくりと育てることができたと思いますが、
僕が指導していても、途中で辞めていった先生方もいらっしゃいます。
全ての先生を育て上げるなどということは、本当に至難のことなのです。
その仕事に就いて初めの頃は、僕の持っている技術を伝えようと必死になっていました。
でも、半年もたたないうちに、そのやり方では人は成長できないと悟りました。
自慢ではありませんが、僕の教育技術は高いです。
教育を趣味と考え、いろんな時間を子どもや授業の研究に奉げてきたのですから。
でも、その技術をいきなり初任の先生に見せつけても、できるわけがありません。
その先生の否定にしかならないのです。
そこから僕は、初任の先生がまずは好きなように自分の授業を創って、実際に行ってから後で、
その日の授業がどうだったかを考えさせる方法をとっていきました。
言いたいことが山ほどあっても、あえて抑えて、今のその先生が改善できそうなことに絞って話していきました。
自分の技術を伝えることよりも、若手が気持ちよく子どもたちの前に立てることを優先してきたのです。
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Posted By taga on 2021年11月6日
内弟子の結婚式があった。
うちの家にしょっちゅうやってきて
授業のこととか
子どものこととか
相談している。
講師の時、授業を見てもらったことないというので
見に行った。
授業はだめだったが、
子どもを見る目が凄かった。
この子はいい先生になるだろう。
そう思った。
採用試験に合格して
初任の時に一ヶ月休職した。
休職時も復帰の時もアドバイスした。
先日、授業を見たら
かなりの成長をしていた。
それでも、今も悩みながら
歩んでいる。
そんなことを思いながら
幸せそうな笑顔を見ていた。
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