多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

見えない国語の学力について

Posted By on 2015年3月14日

国語の学力を下支えする見えない力として、
言語姿勢と言語感覚の二つがある。
これらは、計ることが出来ない。
評価できないものである。
目に見えない学力と言ってもいいだろう。
 しかし、間違いなく存在する。
僕は、子どもたちが自ら国語の学力を作っていく過程において、
この二つが大きく影響していると考える。

 言語姿勢は、言葉に興味・関心を持ったり、
新しい言葉の意味を自ら調べようとしたり、
だじゃれなどの言葉遊びを楽しもうとしたりする姿勢のことである。
これは、授業によってつけていくことの可能な力である。

 言語感覚は、たとえば、コンビニで支払いしたときに
「1000円から預かります。」と言われて、
「おや。この言葉の使い方はおかしいんじゃないのかな?」
と思ったり、言葉のひびきを大切に考えたりすることだ。
短期間では身に付かないものだし、
家庭の言語環境が大きく影響するものでもある。

国語学力がないということ

Posted By on 2015年3月13日

⑥ 聞く力
・ 聞き取る以前に、単に聞く力がないと、国語の学力があるとは言えない。
いつも言っていることだが、
大学入試の国語で聞き取りのテストが半分出るようになったら、
高校の授業が変わり、
小中学校でも聞くことを中心とした学習が増えていくだろう。
 聞くことは、自分の意志が決める。
耳に入ってくる全ての音を聞き分けて、自分の聞きたいことだけをとりこもうとするのだ。
だからこそ、聴き方を意識しないと、聞く力にはつながっていかない。

※ 聞くことについては、自著の
『全員を聞く子どもにする教室の作り方』が11刷りになった。
うれしいことだけど、
僕は今、『子ども達が聞くようになる学校の作り方』というものが書きたいなあ。

国語学力がないということ

Posted By on 2015年3月12日

⑤ 要約する力がない
・ 要約する力は、簡単にはつかない高いレベルの力だと思うが、
それこそ、国語学力の有る無しをはっきりと示してしまうものだと考える。
要約にも二種類ある。
文章を要約する力と聞き取って要約する力(要約聴取)。
この二つはメカニズムが少し違っているから、同列には論じられない。

・ 文章を要約するときには、その前に読み取る力や語彙力が必要なのだが、
語彙も多くて読解のテストでも良い点数をとる子どもの中に
、要約の苦手な子どもがいる。
言葉を絞り切れない子どもである。
要約にはキーワードを絞り込むということが必要だ。
それが、なかなかできないものなのである。

・ 要約聴取では、全てを同じように聞くのではなく、要点を取り出しながら聞かねばならない。
文章のように、要約する為にもう一度読み直すということができない。
一発で聞き取らなくてはならないから、
ものすごい集中力を必要とするのである。

国語学力がないということ

Posted By on 2015年3月11日

④ 思い・考えを表現できない
・ 自分の思いや考えを適切に表現できないという子どもは、
国語の力がないと言って良いだろう。
 ただし、表現できないのには、さまざまな理由がある。
つまずきには、バリエーションがあり、一様ではないということだ。
単に技術だけの問題ではない場合も多く、
技術面と心理面の両方から見ていかねばならない。

・ 表現には、「書く力」と「話す力」とがある。
この二つは必ずしも連動しない。
教師の中にも、講演ではなかなかの表現力を発揮するのに、執筆したらからっきしダメな方がいらっしゃる。
また、その逆もときどき見かける。
「必ずしも」という言い方をしたのは、
両方とも得意な方も多くいらっしゃるからだ。

・ 話す力は書く力よりも指導しやすいと、僕は考えている。
 話すためのてだてはいくつもあり、トレーニングによって、かなりのレベルまであげることは可能だ。
 しかし、書く力については、なかなか授業で培ったものが生きて働くまでには到達しない。
これは、書くことには話すことよりも中身の個性が求められるからだと思っている。
つまり、話すことよりも書くことの方が作品としての価値が高いのである。
 また、引きこもって書くことはできるけれども、引きこもって話すことはできない。
話す時は常に、目の前に対象となる相手が存在する。
書くことは、最終的には人に開いていく行為であるが、書いている瞬間には、目の前に人はいない。
 日常において必要なのは、書く力よりも話す力なのである。

国語学力がないとは

Posted By on 2015年3月10日

③ 正確な言葉が使えない・語彙が少ない
・ 語彙の数と言葉の不正確さはリンクしている。
語彙の少ない人間に正確な言葉を駆使できる人はいないし、
正確な言葉は使えないけれども語彙は豊富だという人も見たことがない。

・ フェイスブック上の投稿・書き込みでは、本人の意図に(おそらく)反して、
その語彙力のなさを露呈してしまっているものがある。
「しっかりやらなきゃ、です。」
「心理学的な考え方から言うと、思いは同じです。」(意味不明)
こういう言葉を使い、正しい言葉の使い方を理解できない人たちが、
教師として子どもたちを教えているのだから、
国語の学力が低下してくるのは当たり前なのかも知れない。

・ 言葉は時代とともに変化していく。
今「貴様」という言葉を敬語として使う人は、誰もいない。
 以前、僕が学級通信に「一所懸命」と書いたら、若手に
「多賀先生でも、間違えるんですね。」
と、指摘されたことがあり、苦笑した。
「一生懸命」は、もはや、正しい言葉として辞典にも載っている。
 また、ら抜き言葉も、NHKのアナウンサーが使うようになってからは、
市民権を得たと言っても良いだろう。
 だからと言って、本来の正しい言葉を使えないで、
国語の学力があると認めても良いのだろうかという疑問がある。

・ 語彙力に関しては、基本的な語彙の吟味というものが、必要だと考えている。
それぞれの学年で「これだけは知っていてほしい」語彙が確立されてこそ、
力として身につけさせたり、どの程度知っているかの評価もできる。
 現代では、基本的語彙が大きく変わってきた。
季節に関すること、伝統的な行事に関すること等が分からなくなってきている。
文科省があせって学習指導要領に加えたが、
スミレが春の植物だと分かっていない教師も増えてきているのだ。
身近に季節を感じる風物が減ってきているのだから、仕方ない。
今更、ヒバリがいつごろさえずるかが、基本的な語彙になるとは思えない。
基本的な語彙そのものを変えていく必要があるのだ。
そうしないと、子どもたちの言葉が実生活で生きて働くものには、なっていかないだろう。

国語学力がないとは

Posted By on 2015年3月9日

② 長文を読み切れない。読み解けない。
・ 活字アレルギーの子どもがいる。
活字を見ただけで抵抗が生じ、長く読み続けることができにくい。
こういう子どもたちは、長文を読み切ることが難しい。
文章忍耐力(自分の好きでもない文章をともかく読み切る力)のようなものがあって、
それは文章を読むときに必要となる学力の一つである。

・ 読み解くことつまり「読解力」は、国語の学力の中枢であるとされてきた。
したがって、小学校の国語の授業では、常に読み取りの仕方をどう教えるかということが課題となる。
この二十年の文科省の学力観の変化によって、読み取りの授業は、大きく時数を減らしてきている。
それでも、中学入試の国語の中心は、圧倒的に読解力を問うものである。
保護者も、
「国語ができるというのは、音読ができるということよりも、読解ができることだ」
と、とらえているのが、現実だ。

  「国語学力とは何か」  

Posted By on 2015年3月8日

「学力」とは曖昧な言葉だが、なんとなく皆が使っている言葉でもある。
学力そのものはとても説明しにくい。
「学力とは何か」を考えるならば、「学力がない」というのは、どういう状態なのかを考えると、分かりやすい。
 国語学力のない子どもをイメージしてみよう。
次のような場合を、「国語の学力がない」と言えるのではないだろうか。

① ペーパーテストの点数が低い
・ 一般的に学力として評価されるのは、ほとんどペーパーテストである。
ペーパーテストの中身そのものも吟味して考えることであるが、
中学入試、模擬テスト、全国学力調査、これらは、全てペーパーテストである。
 ペーパーテストの中身について吟味しないと、本当の学力を考えることはできないが
、少なくとも、国語のペーパーテストで低い点数をとる子どもは、国語の学力が弱いと言わざるをえないだろう。
発表がたくさんできようとも、大きな声が出せようとも、感動的な作文が書けようとも、
ペーパーテストが悪ければ、国語の学力がないと言われてしまうものである。

・ ところで、漢字のテストの点数が低いからと言って、
国語の学力が低いと言い切って良いのだろうか。
漢字の暗記力は、国語の学力のごく一部ではあるが、現場においてその割合が妥当性を担保できているのだろうか。
国語のテストにおいて、漢字の読みと書き取りの占める割合について、
どの程度が妥当なのかという議論はあまりなされてこなかった。
それでいて、中学入試で言うと、漢字の出題率の高い学校は、おしなべて偏差値が低いという傾向がある。
それは、漢字のテストの比率を高くしないと、とんでもなく悪い点数になってしまって、
合格平均点も下がるし、選抜するときの差もはっきりしなくなるからである。

・ 読解のペーパーテストにおいては、教科書で学習した文章をそのまま出して、国語の学力が計れるのかという疑問がある。
未知の文章を読み解く力こそが、国語の読解力なのではないだろうか。
 しかし、現場の市販テストも教師作成テストも、ほとんど既知の文章で問いかけている。
入試になると、未知の文章ばかりなのに・・・。

早起き

Posted By on 2015年3月7日

いつも6時までには起きて、散歩。
何時に寝ても、早起きして、散歩。
行かないと、この子がうるさくて・・・。
まあ、これで体調がいいのかも知れない。
朝がしゃんとするから。

三津五郎の訃報に思う

Posted By on 2015年3月6日

勘三郎と三津五郎、
対照的な二人は、僕と同い年。

複雑な思いがする。

僕は同い年の友を、二人亡くしている。
もう十年も経っているから、早逝だと言っていいだろう。
一人は交通事故。
夜中にキツネをよけ損ねて街路樹に激突した。
一人は病気。
「退職した」という通知を受け取って
「どうしたのかなあ」と思っていた矢先だった。
大事な人たちだった。
二人とも親不孝だった。
親よりも先に逝ったのだから・・・。

今、自分がこうして日々、好きなことしておくらせてもらっていることを
改めて、ありがたいことだなあと思う。

専門家

Posted By on 2015年3月5日

中一殺害事件で、専門家という方が
テレビで話しておられた。
「子どもが、本当に厳しい状況にある時は
なかなか大人に言えないものなのです。
今後は、そういうことを考えていかねばならないでしょう。」

えっ?!それだけ?
専門家なのに?
それって当たり前のことで、これまでも大きな問題の起こる度に
指摘されてきたことじゃないのかな。

わざわざ「専門家」として、世の中に向けて発するほどの言葉じゃない。
これまで何度も繰り返してきたことで、
どうやったら子ども一人一人の思いを大人がくみとっていけるのか、
ということが、問題なのだ。
「考えていかねばならない」なんて、専門家の言葉じゃない。
あなたの「専門家」としての意見が聞きたい。

教育は全ての人が関わる。
教育されたことのない人なんて存在しないし、
親と言う立場も含めれば、
日本の大人で教育をしたことのある人は、オーストラリアの人口を軽く超える。

そういう人たちに向かって専門家として発する言葉は、
もう少し中身があってほしい。