思いを紡ぐということ -教室の「あの子」⑬-

Posted By on 2015年1月9日

子どもの言動には、全て意味がある。
社会的に常識的に容認できないことであっても、
その思いは読み解いていかねばならない。
朝の連続テレビ小説の「ごちそうさん」で
娘が、学校に火を点ける。火事になりかかって、大問題で、学校へ行かせられなくなる。
その子は、戦時中に学校で、勉強ではなく、仕事をさせられることが、がまんできなくなって、
女学校の先生たちから非国民だと言われる。
でも、彼女は、
「学校行って勉強できへんのやったら、言っても仕方ない。」
と言う。
これ、戦時中だから、とんでもない言葉だが、
よく考えたら、全く正しいことを言っている。
ドラマを見ている人たちは、ヒロインに好意的だから、「なるほど」と思うけれども、
戦時中ならば、「なんじゃ、あそこの子は。おかしいんちゃうか」ということになる。

学級では、教師はときどき、そういう子どもの思いを抜きにして、
教師や学校の価値観だけを振りかざして
その子たちの思いを抹殺してしまう。
全ての子どもには、その子なりの思いがあって、
グレーゾーンだろうが定型発達だろうが、
その思いを紡いでいくことが一番大事なことじゃないかなと、思う。

学級という社会の中で、子ども一人一人の思いを紡ぐことは、難しいことだが、
いろいろな糸があって、それらがそれぞれ輝きながら紡がれていくような学級の在り方が
僕の考える理想である。

最近の若い先生たちの話していることを聞いていると、全員が98点以上とれたとか、
全員が給食を完食した、とか、
なんか全員がそろっていることが最高であるかのような話が出てくるときがある。
その中で、言いようのない苦痛を味わっている子どもはいないのか。
僕なら、少しくらいの子どもが食べられないから残したって
どうってことない。
そんな数パーセントの子ども達も居心地の良い学級が
僕には合っている。
どこかに逃げ道、逃げ場、異質な子どものいられる場所、
そういうものが学級にないといけないと思うんだ。

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