西宮での話 その3

Posted By on 2013年6月20日

さて、視写しました。

また、その視写した文を読みながら、書き込んでいきます。

まずは、言葉の吟味からです。

研究授業等を見ていて、国語の教材文を読み込んでいない人は、すぐに分かります。

子どもの指摘する表現がどこにあるのかを、

ぱっと教師が分からないからです。

どの教科においても、教科書に出てくる言葉や用語ぐらいは、教師が自分で調べるべきです。

自分で調べると、その言葉を子どもたちにどう伝えるか、

伝えなくてもよいのか、等といった判断ができるようになります。

教師が調べていないというのは、

授業を見ていたらすぐに分かります。

子どもたちにも、それは伝わります。

そういう先生のことは、軽く見てしまいます。

したがって、授業を構成する一つの要素である、

教師に対する敬意が生まれません。

言葉を吟味するというのは、

「この学年の子どもたちにとって、この言葉がわかるのかな?」

と思いながら、言葉をチェックしていくことです。

106ページの3行目を見ましょう。

そこでは、ぼくは「さすがに」と「くたびれる」という言葉をチェックしました。

それで、辞典を引きます。

「これぐらい分かっている」ではなくて、

「辞典には、どう書いてあるんだろう」という考えなんです。

言葉に関しては、自分の思い込みということがありますから、必ず、辞典を引きます。

「さすがに」を引くと、「そうは言うものの、やはり」と、書いてありました。

広辞苑では「やはり」です。

「そうは言うものの、やはり」だなんて、

一年生にそのまま言って、分かるはずがないでしょう。

どう説明しますか、一年生に。

【少しだけ、考える間を持ってから】

わからないでしょう。

難しいですよね。

言葉の意味の説明には、二通りのやり方があります。

言葉を言葉で説明する場合と、実際の例で説明する場合です。

この場合は、実際の例で説明します。

はい、考えましょう。

隣の人とお二人でどう一年生に説明するか、どうぞ。

 

ぼくなら、

「昨日から全然寝ていません。

忙しくて寝るひまがなかったから、そのまま起きています。

だんだんとしんどくなってきて、さすがに、眠くなってきました。」

まあ、こんな感じですね。

みなさんの方が現場に近いから、

もっと良い例を作っていらっしゃると思いますよ。

こうやって、いちいち辞典を引くことが、教材研究であり、

教師の国語力を太らせることにもなるのです。

 

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