クローズドした意見

Posted By on 2015年9月11日

ある方がインクルーシブ教育を語るブログで
親の見栄について、
子どもの思いと重なっていないのではないか
という考えを書いておられた。
その内容については、基本賛成で「その通りだ」と思っていた。
ただ、別の考えも僕にはあって、
子どもの居場所って何だろうと
改めて考えていた。

そうしたら、そのブログをシェアしてご自分の意見を書かれるかたがいらっしゃった。
ものすごく否定的な書き方で、
人格否定につながりかねないような発言まであった。
要するに、「分かっていない」と言うのだ。
親の見栄なんかで子どもの進む道を考える親なんて一人もいないと言うのだ。
でも、そんな人はいるよ。
僕は知っている。
僕はその親の見栄そのものさえも否定しない立場に立つんだけど。
当たり前にいるよ、そんな人たち。当たり前じゃん。
人間って、みんな天使の心で生きているわけじゃない。
親の見栄もあり、子どもをうっとおしく感じる時もあり、それらにも苦しみ、葛藤しているのが本当のところじゃないのかなあ。
人間って、そういう生き物だと、僕は思っている。

「あんな人には何も分からない。」
「何も知らないくせに好き勝手言うな」
こういう「知っている人」からの言葉とは、対話できない。
対話がクローズドしてしまうのだ。
オープンにして、ふつうに
「私は親の見栄なんてないと思うけど、いるのかしら、そんな人」
「私は何人も出会いましたよ、そういう方。」
というような言い方ならば、対話できるのに。
残念に思う。
申し訳ないが、特別支援の方の中にも、たまたまそういう発言をされる方がいらっしゃる。
普通の学校現場の中にも、いらっしゃる。
分かってないことはご自分にはなくて、相手にだけ分かっていないことがある、
という姿勢では対話は不可能だ。
お互いの温度差を縮める努力がないと、話なんてできない。

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