文学の授業

Posted By on 2015年12月4日

水曜日は尼崎の小学校で
『大造じいさんとガン』の授業。
4場面、ラストシーンだった。

僕は主任に
「美しい文学作品は美しく授業をしてほしい」
と言ったが、この作品の美しさは情景描写にある。

4場面では、やはり
「らんまんとさいたスモモの花が、その羽にふれて、
雪のように清らかに、はらはらと散りました。」
というところだ。

「らんまん」という美しい日本語のひびきが伝えるもの。
桜でも梅でもないスモモの白いはなびらの散り方。
それが雪のように清らかなのである。
「清らか」という言葉のひびきも、美しい。
今の子どもたちには「清らか」という語彙がない。
だからこそ、その潔さとすがすがしさを教えていく。
子どもに考えさせる。
はらはらと散る散り方の美しさも、大切だ。

そこに大造じいさんの心情が表れる。
ここを描かせなくて、文学の授業だとは言えない。

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Comments

2 Responses to “文学の授業”

  1. daisuke より:

    多賀先生、毎日ブログを楽しみにしております。「大造じいさんとがん」は本校でも授業研究があります。先日の教材研究の際に今回多賀先生が紹介された文章について議論がありました。「らんまんとさいたスモモの花が、その羽にふれて、 雪のように清らかに、はらはらと散りました。」花が、羽にふれるとは、どういうことだろうという疑問がありました。羽が花にふれるのなら分かります。これは、相撲で花道を歩く際に観客が激励に肩にふれるのと同じではないかという結論にいたりました。多賀先生の文章に触発されて思わずコメントしてしまいました。どうかご教示いただければと思います。

  2. taga より:

    ここは、羽がらんまんと咲いたスモモの花にふれた瞬間に少しだけぱっと散って、それがはらはらと舞い降りてきているという感じではないでしょうか。その向こうに遠ざかる残雪がいて、そのこちら側に大造が立っているのでしょう。花道どうこうというのは解釈であって、それは読み手の自由度の高いところですね。書いてある通りに読み取って、解釈はそれぞれでいいと思います。