教師二元論 ①
Posted By taga on 2022年6月19日
「教師とは、いったいなんぞや。」
「理想的な教師像とは何か。」
教師というものは、常にこういう言葉にさらされます。また、不思議なことに、教師自身も、常に「教師とは?」ということを模索しているところがあるのです。
他の職業でそういうことが常に話題となるようなものが、どのくらいあるでしょうか。
理想的な医師とは?
弁護士とはなんぞや。
警官の理想像は?
理想的社長像。
政治家とは、何か。・・・これは、言いますね。
大工さん、魚屋さん、料理人、といった職人さんでは、「気難しいものだ」とか「打ち込むタイプが多い」とか言われたとしても、理想像を唱えられることはありません。
ほとんどの職種では、仕事の内容、質のみで評価されるので、「○○像」というようなとらえ方をされないのです。どんなに人柄の素晴らしい大工さんでも、家を曲げて建てたら、だれも仕事は頼まないし、まずい料理を作る店には、板前のきっぷが良いからというだけで人が並ぶことはありません。
では、教師はなぜ「教師像」というようなことが言われるのでしょうか。それは、教師という仕事が全人格的に子どもに関わり、影響を与えるものだからです。
この教師像というものに焦点を当てて、教師というものを掘り下げて考えると、そこにこれからの教師に必要なものが浮き出てくるのではないかと考えました。
論じるにあたっては、主に二元論で考えていくことにしました。ある観点から、対比される二つの教師像を取り上げ、それぞれの特性と現実を見つめ直せば、はっきりと違いが浮き彫りにできると考えたのです。
教師に絶対像は存在しません。それは、生きている子どもたちを相手にしているからです。一人の先生のやり方が日本中のどの教室でも通用するということは、ないからです。(通用すると思い込んでいる人はいますが・・・。)そして、時代とともに、教師に求められるものも変わってきます。
Ⅰ ドラマの中の対比できる教師像
テレビドラマにおける教師像というものは、そのときの社会の実態、教育界の諸問題を反映しています。
「青春シリーズ」というものがありました。石原慎太郎の原作でも有名ですが、熱血教師が高校生たちと、汗と涙の青春ドラマを演じるものでした。
この教師像は、不良であったり、疎外されていたりする生徒にまっすぐぶつかって、「分かってくれる兄貴分」という感じのものでした。共通しているのは、さわやかで、生徒のためにすべてをなげうって必死になることでした。
夏木陽介、竜雷太から始まった青春シリーズ。
「進め青春」浜畑賢吉、「飛び出せ、青春」村野武範、「われら青春」中村雅俊。
ほかにもたくさんの人が青春熱血教師たちを演じましたが、共通しているのは、ラグビーやサッカーなどのスポーツで子どもたちを指導していくところでした。
その後も、さまざまな教師ドラマが作られ、ヒットしていきました。それらは、時代を映し出す鏡でもあったのです。
① 熱中先生とびんびん先生
「熱中時代」水谷豊
「先生はな・・・」という語り口調で、水谷豊が演じたのが、熱中先生でした。この「熱中」は、青春シリーズの「熱血」とは少し趣の違うものでした。子どもと一緒に悩み、困り、子どものためにだけ存在する教師、子どもの中へぐいぐいと入りこんでしまうという「熱中」でした。さわやかでパワーのある教師ではないけれども、子どもへの誠実さの感じられる教師でした。
「デモシカ教師」という言葉が流行するほど、「教師にでもなろうか」「教師しかなる仕事がない」といったモチベーションで教師になった人がたくさんいました。そういう程度のモチベーションで教師になっても、やっていけた時代なのです。哀しいことに、そのままそういう教師が生き残り、現在、管理職になっているというところがあります。
「デモシカ教師」と全く違うところを歩むのが、「熱中先生」だったわけです。
多くの人々の共感を得たのは、あまりにも子どもに対して適当な教師が目立ったことが、一因だろうと思います。
「教師びんびん物語」田原俊彦
同じ熱中先生でも、それから十年ぐらいして登場したのが、子どもに対してただ愚直で、まっすぐにしか対応できない教師、田原俊彦の演じた「びんびん教師」でした。
ここでは、子どもの抱えるさまざまな問題が、デフォルメはされていましたが、赤裸々に描かれていました。見ていて気恥ずかしくなるくらいに、ただ真っ直ぐに子どものことをなんとかしようとする教師の姿に共感を持ちました。
それは、教育の問題がもはや一教師の努力だけでは、どうにもならないほど、深刻になっていたことの表れかも知れません。
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