◆ 「書くこと」は、ひとりひとりを大切にすること

Posted By on 2011年11月15日

「ひとりひとりを大切にする授業づくり」講演から

その5
◆ 「書くこと」は、ひとりひとりを大切にすること

ここからは、「書くこと」について、話します。

「書くこと」がひとりひとりを大切にすることと どうつながるのか、という話です。

まず「書くこと」は、まさしくひとりで取り組む活動です。

書く活動を通して、こどもは自分をふり返ります。

「日記、何を書こうかなあ。」

そう思うだけで、自分の生活をふりかえることができます。

鉛筆を持ってノートに向かっただけで、ふり返りになりますね。

書きながら、思い出すということができます。

これも、ふり返りです。

日記を「書くこと」は、ひとりひとりが自分の生活をふり返ることなのですね。
また、「書くこと」は、自己開示することです。

高学年になったらなかなか本音が書けません。

それは、自己開示することが怖くなってきているのですね。

生に対する信頼がなければ、書けません。

クラスの仲間に提示することが分かっていたら、その仲間を信じられなければ、書けません。

「書くこと」によって書かれたものには、ひとりひとりの子どもの思いや何か大切なものがふくまれているということです。
ところで、ひとりひとりを大切にしようとすることは、学校という所では、実は、とても難しいことですよね。

集団行動をとらせないといけないからです。

集団の活動というものは、個人の自由な行動を制限するものです。

教室にいるでしょう。

校じゃなくて、広い野原で自由に過ごさせたら、すごくおもしろくていい子なんだけど、

クラスや学年で団体行動をとらせようとすると、問題になってしまうこどもって。

いますよね。
 

その子にしてはがんばっているんだけれども、集団から見ると、認められない。

そんなジレンマに陥ることはありませんか。

時間的に考えて、ゆっくりタイプのこどもだから、もう10分間ほどあげられたら、できるだろうと思うのに、

次に進まなければならないから、おしりをたたいてしまう。

んなとき、割り切れますか。
一斉授業というものは、基本的に集団行動であります。

いつも、個と集団ということで、ジレンマが起こります。

社会生活をきちんと営める人間に育てることは、学校教育の大きな使命ですから、ある程度は集団に合わせていくことも、こどもに教えなければなりません。
でも、一人のこどもを、それでは活かせないと思うときもあります。

心ある教師は、みんなそこで悩んでいます。

集団を乱したり、授業の流れをこわしたりするおそれがあっても、一人を活かしていくなんてことは、すごい力量と根性がないと、できません。

僕には無理なんです。
だから、通信や一枚文集を使います。

通信や一枚文集は、さきほどから言っている「ジレンマ」を解決できる一つのてだてです。

授業や行事のそのときには、受け止めてやれなかったこどもの思いというものを、一枚文集を通して、クラスの仲間や保護者に広げることができるからです。
家に帰って子どもたちが語るのは、その子の見たごく一部のことで、主観のつまったものです。

けっして全体を俯瞰して客観的な話をするわけではありません。

それを通信などで、きちんと「こうですよ。」と、伝えるわけです。

こどもが書いてきたことを一枚文集にして配って読み合うということは、その子の思いをみんなに広げるということです。
ただ、作文、日記を順番に文集に載せていくだけでは、効果は薄いと思っています。

戦略的に活用することが必要です。

僕は、こどもの思いのつまった文章が出て来たら、すぐに文集には載せません。

チャンスを待ちます。

それが最も有効に活用できるチャンスを待ちます。

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