文字文化としての文学性〔文学性⑤〕

Posted By on 2014年10月5日

映画やアニメの世界にも「文学性」は存在する。

というか、文学性のないものは、ヒットしないと言っても過言ではないだろう。

けれども、文字文化としての文学というものと、

映像文化とは、はっきりと一線を画する。

文字で表された言葉から想像するということは、

全ての人たちが、みな違うことを描くということだ。

「ネコ」という言葉で考えてみよう。

宮崎駿の「魔女の宅急便」に出てくるネコは、

このアニメを観た全ての人が同じ色と感じを持つ。

大きさも全く同じものしか考えられない。

だれもこのネコを「にくたらしい」とか「かわいそう」だとかは思わない。

そこには、各自が自由に想像できる余地などない。

しかし、物語文の中に「一匹のネコが現れた。」という表現があったら、どうだろう。

家でかわいいアメショーを飼っていたら、かわいくじゃれついてくるネコが浮かぶだろう。

野良猫に庭を荒らされてばかりいたら、

にくたらしい敵のように感じるかも知れない。

自分の経験と照らし合わせて想像することになる。

そこが、文字文化とアニメや映画などの映像文化との違いだ。

文字は言葉になり、分節、文章へと紡がれていき、

初めて意味のある文学になる。

そして、その意味は、読み手一人一人の主体性によって読み解かれていくという特異性を持つ。

だから、授業として文学を取り扱うときには、いつも、

「今、作者の描いている世界と近いものを、読み手である子どもたちが描けているのかどうか。」

ということを意識しなければならないのである。

 

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