映画 「天使の詩」に見る、兄弟のとらえ方

Posted By on 2012年12月1日

親塾№14は、映画の話から入った。


まずは、古い映画の話から入ります。僕が小学校の高学年のときに見た映画です。

皆さんの生まれるずっと前から、僕の心にしっかりと残っていて、子どもたちを見るときの基本ともなってきました。

まずは、その映画の話を聞いてください。

INCOMPRESO (天使の詩)

英国大使ダンカンが、妻を亡くして沈んでいた、というところから、この物語は始まります。

二人の幼ない子供、兄のアンドレアは八歳、弟のミロは四歳でした。

ダンカンはアンドレアに母の死を告げます。

アンドレアは取り乱した悲嘆の様子を見せませんでした。

父親は、それをアンドレアが気の強い性格だからと思いこんでしまうのです。

事実はそうでなく、アンドレアは、すでに母の死を知っていて、深い悲しみに打ちのめされていたのでした。

父親はそれに気づかず、しきりに病弱で幼いミロのことばかりを心配しました。

彼はアンドレアに母の死をミロに話さないよう、あくまで旅行中だと隠しておくよう約束させるのです。

兄にだけ、悲しみを表現することもできない苦しみを背負わせるのです。

本当は、アンドレアは、父と話をしたり甘えたりしたかったのですが、

公用に忙しいダンカンは、その時間を持ちませんでした。

ある雷雨の夜、雷鳴におびえて弟のミロは「ママが死んだ!」と口走ります。

ダンカンは、アンドレアが約束を破って母の死を喋ったものと思い込んで、兄を責めます。

父と子の心の裂け目は、誤解によって次第に大きくなっていくのです。

この映画の原題は、INCOMPRESO意味は、「誤解」なんです。

ダンカンは、ミロの悪戯はすべてアンドレアのせいだと思いこむようになっていきます。

こういうことって、よくあるんですよね。

自分の子どもなのに、悪い子だと思ってみてしまうと、その先入観から抜け出せなくて、誤解が誤解を生じます。

“パパはどうして僕を信じてくれないんだ”

アンドレアは一人で泣く日々が続きます。

ある日、アンドレアは、父の戸棚からテープレコーダーを見つけるのです。

そのテープには、懐かしい母の声が入っていました。

淋しくなるとアンドレアはその母の声に聞き入ったのです。

ところが哀しいかな、再生と間違えて消去のボタンを押してしまいます。

母の声は二度ともどらなくなってしまうのです。

アンドレアは、電気屋さんに行って、泣いて頼みますが、もちろん母の声はもどってきませんでした。

このことでも、父親から責められて、アンドレアの心は冷たくなっていきます。

そんなところへ、ダンカンの叔父が、彼等の家にしばらく滞在することになります。

叔父はダンカンとアンドレアの間の誤解を見抜き、ダンカンにもっと、アンドレアと話しあう機会を作るよう忠告するのでした。

父親も兄が憎いわけではありません。ただ強い子どもだと思い込んでいるために、やさしくしてあげるということができなかったのです。

忠告を受け入れたダンカンは、アンドレアをローマに連れて行くことにしました。

喜んだアンドレアは、その日は朝早く起きて車の水洗いを始めるのです。その時ミロが起き出してきます。

アンドレアがローマに行くと知ったミロは、一緒に連れていけと駄々をこねるのです。

そして、それが駄目だと知ると、アンドレアが止めるのも聞かず、水道の水を頭からかぶったのです。病弱なミロは、たちまち熱を出してしまいました。

これもアンドレアのせいになってしまいました。

もちろん、ローマへは行けなくなりました。

こうしてアンドレアは決定的に打ちのめされてしまいます。

淋しさをまぎらわすため、アンドレアは庭にある“度胸だめしの枝”と呼んでいる枯木の枝にぶらさがるのです。

そして、いままで進んだことのない先まで進んだ時、枝が折れて、アンドレアは背骨を打って重傷を負ってしまいます。

ダンカンが急を聞いて帰って来ましたが、アンドレアは、二度とさめることのない深い眠りに落ちていきます。

そのときの最後の一言が父親の胸にささります。

「パパは、きらいだ。」

最後まで、親子は、心が離れたままで終わりました。

父は、亡くなったわが子の姿を見て、

「私はあの子をわかっていなかった。」と、慟哭しますが、命はもどってきません。

このような極端なことはないとしても、

家族にとって、子どもにとっての悲劇にならないように・・・という思いで、今日は話します。

 

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