意図した教育と意図しない教育

Posted By on 2011年9月19日

遠足で、けっこう歩いた。

一番先頭の子どもは、足を痛めていて、運動会の練習にも全く参加していなかった。

その子が、足をひきずっているので、どうしても遅れてしまう。

「Aさんは、足をいためているので、どうしても遅くなるから、二番目から後ろは、ぬいてきなさい。」

と言った。

冷たい言葉に聞こえるかも知れない。

でも、僕はその子に合わせない。遠足についてこれるという判断でおうちの人も出しているのだから、

本人には、がんばってもらうしかない。

きっとこの子はがんばるだろう、という見通しもあった。

そのがんばる姿を認めてあげればいい。

そう思っていた。

言葉は悪いが、意図的なのである。

子どもへの指示の多くは、手厳しい言葉も、突き放しも、

僕は意図を持って行う。思いつきではない。

そうすると、前から二番目の子どもが、ずうっと足を痛めている子どもの少し後ろを、肩に手をやって励ましながら、僕の方をちらちら見ながら歩いていた。

「先生にしかられないかなあ・・・。」

ずうっと・・・である。

子どもたちを集めたときに、その子をほめた。

「先生にしかられるんじゃないかと思いながらも、

 友だちにやさしくしていた。すてきな心ですね。」

これは、意図しないときに起こった出来事。

どう子どもを見て、何を大切にしていくかという教師の哲学によって、変わる。

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