特別支援教育は、特別な教育か?

Posted By on 2013年5月24日

青山真吾さんの

「個別の指導における子どもとの関係づくり」(明治図書)

を読んだ。

サブタイトルが「若い教師に伝えたい基礎技術」となっているが、

こんなサブタイトルは必要ない。

この本は、若手が読み切るには難しい。

若手は、子どもとの事実の積み重ねが、圧倒的に少ないからだ。

一方でここにある「子ども理解の方法」を持っている中堅・ベテラン教師が何人いることだろうか。

障碍のある子ども、発達障碍スペクトラムの子どもたちを理解するためのてだてなんかじゃない。

子ども、いや、人間そのものを理解することについての大切なことが、この本には、ある。

子どもとの関係に苦慮する教師、子どもとの関係ができていると思い込んでいる教師、

そういう人たちには、読み込んでほしい本だ。

 

具体的にいこう。

◆ 「私は、教育を文脈でとらえることがひじょうに重要であると考えている・・・」

ーー教室で現れる子どもに関する現象を「文脈」でとらえられている教師が何人いるのか。

 

◆ 「・・・・一緒なのは空間だけであり、子どもは自分の判断で、やりたいことだけを行っているのであり、そこに先生の思いや提案は一切反映していない状況だから・・・」

ーーそんな教室が山ほど有る。

教師は「子どもなりにがんばっている」と、認める教師を演じるが、

実際は空間に一緒にいるだけで、本当に一緒にいるのではない。

青山さんの指摘は、通常教室の教師にこそ、投げかけられるべきである。

 

◆ 「大人が勝てば、子どもも勝つという関係・・・子どもを育てていくためには、大人は「勝つ」ことが必要なのである。」

ーーなんでもを受け止めすぎて、「子どもに勝って育てる」という発想をなくしていないだろうか。

受け止めるというのは、見抜くことでもあるのだ。

 

◆ 「要するに、言語、非言語問わず、子どもとやりとりをすることである。そして、子どもに何が伝わったのか?どのように伝わったのか?に敏感になることである。」

ーーやりとりまでで終わっている教師がたくさんいる。

やりとりに酔ってしまうのだ。

青山さんは、鋭い。僕は「機微」という言葉を使うが、この「敏感」という言葉は重要だ。

 

◆ 「情緒的な励ましや明確さを欠いた叱責は混乱を助長する」

ーー教室で子どもを励まし、叱る方法を書いた本はたくさんある。

でも、この肝心なところを逃してはいけない。

教師は、自分に酔う。通常学級だと、はっきりと表に出にくいが、発達障碍の子どもたちは純粋にこの混乱を出してくる。

通常学級で、黙って混乱しているサイレントマジョリティが学級を崩していく。

さらに青山さんの言う

「叱ってはいけないは思考停止をもたらす」

という言葉は、重い。

 

◆ 「共有できるヒト・コト・モノをさがす」

ーーここのエピソードは、僕は完全に共感できた。

同じ手法を僕もとってきた。周りの教師からは、批判が多かったが

僕は、そうしてきた。

結局、教育は、チャンネルを探して合わし、コミュニケートしながら考えていく営みなのだ。

 

◆「厳しく言われて食べさせられた。

ーー止めてもらって食べられた(ありがとう)

子どもの思いは果たしてどっちなのか?

これこそが重要な課題である。」

ーー子どもに厳しく指導するとき、そのことを意識することは、ほとんどない。

でも、それこそが重要だと、青山さんは言い切る。

教師は日々、叱責と賞賛を子どもたちにくり返す。

そのことの意味は、どこにあるのか。

もちろん、子どもの思いなのである。

 

◆「心理的な距離を寄せすぎると、子供の側が関わりを受け入れられなくて・・・」

ーーDVで親から隔離された子どもたちを受け入れる施設に講演に行かせて頂いたとき、

僕も、同じようなことを話した。

なんでも寄り添えばよいというものではないのだ。

では、どうしたら良いのか?青山さんは、一つのてだてを語ってくれている。

 

◆ 最後の章の「おさえておきたい子どもとの関係づくりの基礎技術」ということろは、

若手もベテランも、自分のしていることとを振り返る対照表となるだろう。

 

うーん。

この本のことを書き出したら、止まらない。

でも、120ページほどの本なのだ。

読み手がどれだけ子どもをイメージできるかによって、この本の値打ちが変わってくるのだと思う。

 

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