「ヒドゥン・カリキュラムの話

Posted By on 2012年6月27日

二人会で話した「ヒドゥン・カリキュラム」の話を

一部、紹介する。

いつものように、僕の話原稿をそのまま載せるので

敬体になる。

 

Ⅰ ヒドゥン・カリキュラムとは何か

ヒドゥン・カリキュラムという言葉をご存じですか。一言で言うと、潜在的教育効果のことです。

って、なんのことか、わかりにくいですよね。

「本に書いてある通りにやっているのに、うまくいかない。」

「先輩の言う通りにしてみたが、どうも思うようにはいかない。」

というような経験をされたことは、ありませんか。

例えば、上越教育大の赤坂君たちが提唱しているクラスミーティングというのがあります。

僕も本を読んで、教室でやってみましたが、本に書いてあるような劇的な効果があったとは思えませんでした。

何度か自分なりに修正しながら、やっていくうちに、徐々に効果が出てきて、子どもたちの取り組みも変わってきました。

なんらかのエキスを加えないと、思うような成果は出ませんでした。

でも、何人かの若い先生たちは、

「その通りにしたら、学級が変わりました。」

「やったとたんに、劇的に効果が出ました。」

なんてことをおっしゃいます。

たぶん、それは、よほど子どもの状態が悪くてどうにもならなかったところへ持ち込んだときに、子どもたちが、そのときだけ、いい動きをしたんじゃないのかなあ、なんて思うのです。

もしくは、本当はできていないことにも気づかないんじゃないかな、と。

怒られますよね、こんなこと言ったら。

じゃあ、本なんか読んだり、こういう講座を聴いたりすることに意味がないのか、というと、それはちがいます。

ヒドゥン・カリキュラムというものがあるのだということを、頭に置いて、実践を聞き、追試していけばいいのです。

※ 優秀なベテランは、見えにくいところで、いろんなことをしています。

それによって、授業がスムースに行ったり、子どもが動きやすくなったりしている、ということを、まず、知っておきましょう。

自分は優秀ですなんて臭いことは言いたくありません。しかし、僕は僕なりに学んで身に付いたことは、たくさんあります。

そのことが、子どもたちの育ちに大きく影響したことを、知っています。

きょうは、 その立場から、ヒドゥン・カリキュラムを考えていきたいと思います。

 

まず、子どもは、授業内容だけを学んでいるのではない。ということから、いきましょう。

子どもたちは、授業を受けながら、いろんな生活指導を受けながら、その内容とは違ったことも、同時に学んでいます。

その先生の価値観や知識、思想に考え方。そういったことが、毎時間のように子どもたちに示されています。

例えば、僕が教壇に立っていたとき、保護者の間でささやかれていることの一つが、

「子どもたちが時事的なことや社会問題に興味を持ち始めて、そういう話題をするようになっていく。」

ということがありました。

保護者同士の会話で、

「さすがに低学年では、一学期にはあんまりなかったけど、二学期になったら、やっぱり子どもたちが社会問題を話し出した。」

なんてことを言われていたそうです。

それは、僕が、折に触れて、時事的なことを持ち出して、ちょこっと話すからです。

例えば、自民党の石原幹事長が、野田総理の言葉に対して、

「総理が申されたことは・・・」

と話したことについて、一国の総理大臣に対する言葉づかいとして、不適切だ。「申す」というのは謙譲語で、自分とその身内に対して使う言葉だから、石原都知事についてなら、使っても良かったかな。」

なんてことを、話します。

授業のカリキュラムにはない話です。

ところが、子どもたちは、そういう話の方が面白いものだから、そこは、しっかり身に付いてしまうんです。

若い頃に、「教師の知恵袋」という言葉を教わりました。

授業の途中に、ちょっと教師が知識の深いところを示したら、授業に幅ができるんだ、ということでした。

そういうことを通じて、僕の考え方というものが、けっこう浸透していったと思います。

 

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